辻 真先 私のハートに、あなたのメスを 目 次  プロローグ キャンパス・スキャンダル  第一章 こんにちは幽霊《ゆうれい》さん  第二章 死体預けます  第三章 上を向いて首吊《つ》ろう  第四章 骨まで殺して  第五章 死にすぎたのね  第六章 誰《だれ》よりも君を殺す  エピローグ スナック・オカルティシズム  プロローグ キャンパス・スキャンダル     1  珍《めずら》しく、東《あずま》博士が汗《あせ》をかいていた。  東西大学学長、日本医者会会長の重責にある東京一郎《あずまきよういちろう》は、めったなことで取り乱す人間ではない。  氷像のように端正《たんせい》な横顔、氷河のような重厚な迫力、氷山のように底知れぬ貫禄《かんろく》で定評のある医学界の怪物《かいぶつ》が、かれであった。  水銀柱が三十度を越《こ》す酷暑《こくしよ》のさなか、英国仕立ての三つ揃《ぞろ》いを着て、銀座通りの歩行者天国を端《はし》から端《はし》まで歩いても、汗ひとつかかなかったという伝説の東博士が、満面に汗の粒《つぶ》を吹き出させているのは、よくよくのことだ。  その原因は、かれの足元に横たわった物体である。  そんじょそこらにころがっているような代物《しろもの》ではない。B86W61H89とくれば、これは、かの熟年《じゆくねん》にして勇躍《ゆうやく》ロマンポルノに主演した美人歌手|五月《さつき》みどりのサイズとおんなじだ。  魂《たましい》が蒸発したような表情で、呆然《ぼうぜん》と突っ立っている東博士は、沸騰《ふつとう》する脳細胞《のうさいぼう》のごく一部で、そんなことを考えていた。——なにしろ博士は、医学界きっての記憶力《きおくりよく》のもちぬしで、その上かくれたるポルノ映画ファンであったから。  だが、いまこうして学長室の床《ゆか》に倒《たお》れている肉体は、スクリーンの中の登場人物ではなかった。  つい三分前まで、生きて、叫《さけ》んで、暴《あば》れた現実の女子学生久米志摩子《くめしまこ》であった。 「冗談《じようだん》はよしなさい、久米くん」  そういって揺《ゆ》り起こしてやりたいのは山々だが——この東西大学きっての美女が、生命の灯《ともしび》を吹き消されて、いまや出来のいいマネキン人形と変らぬ物体に化したことは、だれよりも犯人東京一郎が知っている。  冗談でもブラック・ユーモアでもなく、博士は、学長は、医者会長は、渾身《こんしん》の力をこめて彼女を絞《し》め殺してしまったのだ。  できたての死体を前に、できたての殺人犯は途方《とほう》に暮《く》れていた。  どうすりゃいいんだ、どうすりゃ。  順序として、救急車を呼ぶべきだろうか……いや、それはもう手おくれだ。わが国最高レベルの医師が断定するのだから、こんなに確かなことはない。  そうだ、一一〇番。  つい反射的に、電話機に手をのばそうとした東博士は、そのままのポーズでオブジェになった。  警察に、なんというのか。 「女子学生が死んでいます」  どこで? 「私のへやで」  どんな風に? 「ワンピースのボタンがのこらず飛び散り、下着がひき裂《さ》かれています。……右方の乳房《ちぶさ》および左大腿《だいたい》部が露出《ろしゆつ》、手は握《にぎ》ったまま左右にひらき、顔は鬱血《うつけつ》して前頸《ぜんけい》部に扼殺《やくさつ》の痕《あと》が認められる。あきらかに他殺ですな」  さすがは東博士だと、係官は感激するにちがいない。  で、犯人は? 博士がへやへおはいりになったとき、すでに逃亡後《とうぼうご》であったんですな。 「いやいや。犯人はまだここにおる」  は? 「私が彼女を殺したのだ」  ——とんでもない!  口が裂《さ》けても、そんなことをいうわけにいかなかった。  日本医者会会長の選挙は、来月半ばに迫《せま》っている。通算三期、東はその椅子《いす》についていた。自分では決して権力欲にとり憑《つ》かれているつもりはないのだが、医者の世界は人と人とのしがらみ、義理、つきあいが、ピラミッド内部の迷宮《めいきゆう》のようにこみいっているから、万一東が落選すれば、オーバーにいえば、天下は豊太閤《ほうたいこう》亡き後のように乱れるだろう。だからかれは、自分が選挙に立ち、当選することが、至上《しじよう》の義務であると信じていた。  もっとも、平清盛《たいらのきよもり》だってヒットラーだって、自身をみにくい権力欲の権化《ごんげ》と思ったことなぞ一度もなかろうが。  公的な立場だけではない。  晩婚《ばんこん》の東京一郎には、まだ十分若くて美しい大子《だいこ》夫人がおり、一粒種《ひとつぶだね》の秀介《しゆうすけ》がいる。かれらを凶悪《きようあく》犯罪者の妻子として、世間の指弾《しだん》を浴びさせてよいものであろうか。  否《いな》!  日ごろ家庭的とはいえぬ博士であったが、このときばかりは、純粋《じゆんすい》な家族愛に燃え立った。  そうだ、一家のあるじとして、私は私の妻と子を守らねばならぬ。一女子学生の命を問題にしている場合ではないのだ。  だいたい事ここに到《いた》った責任の半ばは、彼女《かのじよ》にあった——と、東はあらためて考える。 (あきらかに志摩子は、私に媚態《びたい》を使っていた)  あれは、去年の春、新入生を迎えて恒例《こうれい》の学長訓辞を垂《た》れたときのことだ。  マンモス大学にふさわしく、広大なホールにふくれあがった学生席を、ひとわたり掃《は》いた東の視線が、前から三列目に坐《すわ》っている志摩子に注がれた。 (うむ。美人だ)  訓辞の最中に、東がそう思ったのは、男として当然の感想であった。 (私の趣味《しゆみ》だな)  熱意をこめて、学長のことばに耳をかたむけている彼女の姿に、博士は好感をもった。訓辞がおわると同時に、志摩子は、惜しみない喝采《かつさい》を学長に送った。その拍手《はくしゆ》を全身ではっきり受け止めながら、かれは大いに満足した。 (まるで、スタアに与える宝塚《たからづか》ファンの拍手だ)  東京一郎が、東西大学の看板であることは、たしかだった。適度に気さくで、適度に知的なかれのキャラクターは、マスコミのあいだで大もてなのだ。ついこの四月から、あたらしいテレビのトーク番組に、レギュラー出演をはじめたばかりである。  顔が売れるのはいいが、東はめったに東西大学にあらわれない。時たま姿を見せても、学長室の椅子《いす》の埃《ほこり》を、お尻《しり》でひと拭《ふ》きするのが関の山だ。  その代りかれは、月に一度特別講義と称して、教壇に立つ。このときばかりは、広い階段教室が学生で埋《う》まった。よほど早くから席をとっておかないと、廊下《ろうか》にはみ出るほどの人気だった。  講義にかならず顔を出し、それも毎度判で捺《お》したように、前から三列目でノートをひろげているのが、志摩子だった。  博士の眼には、彼女が光りかがやいて見えた。  男性なら多少の差はあれ、おなじ幻覚《げんかく》を生ずるとみえ、実にしばしば左右の男子学生が、講義中にもかかわらず、話しかける。一度なぞは、ひげもじゃの不潔な男が、そっと彼女の手をにぎろうとした。かっとした学長が、あわやそのけしからん男子学生に、チョークを投げつけようとしたほどである。  だが、かれらに対する志摩子の態度は、痛快だった。左右から殺到《さつとう》する私語に見向きもせず、にぎろうとした手の甲《こう》をつねりあげ、平然と万年筆を走らせている。 (彼女は、よほど私を尊敬しているんだな)  講義を終えて、学長室に帰ろうとする東は、きまって教室を出た志摩子と、顔を合せた。はじらうように一礼し、すれちがう志摩子だったが、その眼《め》は疑いもなく東京一郎の横顔に見とれていた。  正直なところ、東は、自分のプロフィルに自信がなくもない。というより、大いにある。 (彼女《かのじよ》は、私を愛しているのかもしれん)  そううぬぼれたのも無理はないほど、志摩子の流し目は、魅惑《みわく》的だった。  それが度重なって一年にあまれば、 (愛しているにちがいない!)  東が心中断定するようになったのも、仕方のないところである。  そして、今日。  講義のあとで、彼女は東にささやいた。 「先生……おたずねしたいことがあるんですけど」  けど、という語尾のふるえが感じられて、耳に心地よかった。 「なんだね」  と、すぐその場で聞きかえしてもいいが——そして、質問者が彼女以外の学生なら、そうしたに決まっているのだが、東はことさら鹿爪《しかつめ》らしい口調で答えた。 「質問なら、あとで学長室へ来なさい」 「わあ」  志摩子が、子雀《こすずめ》のようにはしゃいだ。 「先生のおへやへ、はいってもいいんですか」 「いいとも」  彼女の反応に、思わず破顔した東が、つまらないジョークをいった。 「入場料は徴収《ちようしゆう》しないからね」  くすくす笑った志摩子は、学長室を訪ねる時間を、五時と決めて、足どりもかるく去っていった。  その量感にあふれたヒップの線を回想しながら、東は、学長室で五時までの時間をもてあましていた。 (質問というのは口実だ)  と、学長は確信している。 (私に……尊敬し、愛する対象に、少しでも接近したいのだ)  いじらしい心根ではないか。  だが、待てよ。  いまどきの女子大生が、そんな清教徒みたいな心境で、私に近づくだろうか。  もっと明快に、もっと直截《ちよくせつ》に、彼女はなにかを求めようとしている…… (くだらん)  一旦《いつたん》はその妄想《もうそう》を投げ捨てた東だったが、たまたま机上の新聞をひろげると、広告|欄《らん》に、某週刊誌の見出しが躍《おど》っていた。 �花の女子大生告白特集・標的は熟年おじさま� 「なげかわしい!」  東はそう口に出すと同時に、 (実態は、直視せにゃならん)  と考えた。  そうだ、久米志摩子は、私に抱《だ》かれたいのだ。男女七|歳《さい》にして席をおなじゅうせずの教育を受けた、東京一郎とは世代がちがう。性の冒険《ぼうけん》に挑《いど》み、性の歓喜を楽しむ、それが現代のギャルのはずだ。 (私が久米くんを拒否《きよひ》したとしよう……絶望した彼女は大学を出て、どこでどんなわるい男にひっかかるかもしれん) (教育者として、見過すわけにゆかない) (この際、彼女の希望をかなえてやるのが、私のつとめではあるまいか)  家へ帰れば、息子の教育と慈善《じぜん》活動に忙《いそが》しい大子夫人は、ろくろく夫をかまってやらない。ついゆうべも、京一郎がベッドからベッドへ手をのばしたら、 「疲《つか》れておりますのよ」  妻にぴしゃりとやられたばかりだ。欲求不満がこりかたまった揚句《あげく》の、自分勝手な思い入れ——とは、東博士、まったく考え及ばなかった。  定刻、学長室におずおずとはいってきた志摩子の、質問がまた誤解を招きやすいものであった。 「あのう、マスターベーションについて、教えていただきたいんですけど」  見かけによらず彼女はそそっかしい。このときも、志摩子は、精神病理学の泰斗《たいと》である東博士に、「マスティケーション」についてたずねる予定だった。  マスティケーションというのは、てんかんの発作の一種で、口をぴちゃぴちゃさせたり舌なめずりしたり、独特の表情をつくることだ。  それがどこでどう屈折して、「マスターベーション」になったのか、彼女の深層心理を分析《ぶんせき》する必要があるが、質問をぶつけられた学長はたまげた。 「そ、そんなことは、きみ」 「もうひとつ、エクスタシーに到《いた》るプロセスもわからないんです」  すらすらといってのけてから、志摩子はアレという顔つきになった。  いま私、なんて発音したっけな。「カタレプシー」と、ちゃんといったかしら。  カタレプシーというのは、分裂病患者《ぶんれつびようかんじや》に見られる症状《しようじよう》で、四肢《しし》や首を与《あた》えられたままの姿勢を平気でつづけていることだ。  いいそこねた本人は自覚症状に到らないから、大真面目《おおまじめ》で学長をみつめている。  かえって東の方が、眼をそらしてしまった。  なるほど、いまの女子学生は想像以上にはっきりとものをいう! 「いい質問だ……」  答えようとして、鴉《からす》みたいなしゃがれ声になった東は、あわてた。 「だが、机上で答え得ることではないな」 「どうすればいいのかしら」  志摩子の声は、聞きようによってはひどく甘《あま》ったるい。 「やはり、実地に……」  患者《かんじや》に接するのがよろしいでしょうかといおうとしたが、東がつかつかと近づいたので、志摩子はことばを切った。 「そう。実地にためすのが一番だよ」 (?)  なんのこっちゃ。  問いかえそうとした志摩子の体が、やにわに抱きすくめられた。  わっ!  号砲《ごうほう》一発スタートが切られてしまえば、あとは医者会長の名士も、婦女暴行常習犯も、やることには大差ない。  眼前ににゅうと迫った、椎茸《しいたけ》の切り口みたいな博士の唇《くちびる》を避《さ》けようと、志摩子は、右に左に首を振《ふ》った。 「なにをなさるんですか。いやっ」  彼女《かのじよ》の方だって、夢《ゆめ》見心地だ。安手なドラマの一場面に登場させられたような気分で、われながらワンパターンのせりふを吐《は》きつづけた。 「やめて! 先生!」 「いまになって、なにをいう」  ひいひい、ぜえぜえ、マラソンに出場した野良犬《のらいぬ》よろしく、息を切らせた学長は、志摩子をソファに押《お》し倒《たお》す。ポルノ映画で見ると、ベルトコンベアにのせたようなお手軽な作業だが、やってみると、これは意外に重労働だ。  幸い学長室は、本館の最奥《さいおく》にあり、壁《かべ》も扉《とびら》もたっぷりと厚い。その上夕刻であったから、あたりに人気《ひとけ》はないはずだった。 「たすけてえ」  ボタンの飛び散ったワンピースの下から、白いブラジャーがもっこりと顔を出す。美貌《びぼう》ではあるが、ワイヤーにドレスをまきつけたような大子に比べ、志摩子ははるかに肉づきがいい。眼下にそびえるふたつの隆起《りゆうき》が、東博士の征服欲《せいふくよく》を、更にはげしくかきたてた。  むきだしになった乳房《ちぶさ》をつかまれて、志摩子は、死に物狂《ものぐる》いの反抗をこころみた。足のバネをきかせて、膝頭《ひざがしら》で博士の股間《こかん》をど突《つ》いてやると、相手はもろに体を折った。  いまの内!  ソファからはね起きた志摩子めがけて、東が呻《うめ》きながら飛びかかる。いまは、学長も必死だ。この騒《さわ》ぎが表|沙汰《ざた》になれば、医者会選挙どころではない。  こいつめ! 自分から誘惑《ゆうわく》しておきながら、いざとなると逃《に》げ出すなんて……ひょっとしたら、対立候補の陰謀《いんぼう》? だとすれば、よけい許せん!  怒《いか》りと恐怖《きようふ》が、博士の頭蓋《ずがい》に充満《じゆうまん》し、ふくれあがり、爆発した。  その爆圧を受けた両手の指が釘抜《くぎぬ》きのように曲って、志摩子ののどにめりこんだ。気道を圧迫《あつぱく》されて、苦悶《くもん》する彼女《かのじよ》の顔は、真赤になった。  息を吸うことも、吐《は》くこともできぬまま、三十秒が経過する。酸素の欠乏《けつぼう》を来たした志摩子は、絶息した。  娘の体が強烈に痙攣《けいれん》したことに気づいた東は、ようやく我にかえって、手をはなした。  ぐたりと床に崩折《くずお》れる志摩子。まるで糸の切れたマリオネットだ。  東学長は、ぼんやり足元の死体を見下ろしていた……珍《めずら》しく、かれは汗《あせ》をかいていた。     2  東西大学の病理|解剖《かいぼう》室が、別棟《べつむね》のもっとも本館寄りにあったのは、東にとって幸運なことだ。  夜にはいって、かれはひそかに、志摩子の死体をそこへ運びこんだ。  スイッチの音が、いやに大きくへやの中にひびくと、あたりがぎょっとするほど、白く明るくかがやいた。  床《ゆか》も壁《かべ》もタイル張り、十|畳《じよう》ほどの清潔な空間。一方の壁面《へきめん》に、階段状の席が設けられているのは、病理解剖を見学する学生のためのものだ。  タイルずくめなので、休業して湯をぬいた銭湯みたいな雰囲気《ふんいき》だが、異彩《いさい》をはなつのは、中央に据《す》えつけられたステンレスの台だ。  数年前までは、武骨なコンクリートの台だったが、解剖室にも新建材ブームの余波が届いたとみえ、いまは不銹鉄《ふしゆうてつ》の巨大な俎板《まないた》である。一部に穴があいているのは、血を床に落とすためだろう。  東は、志摩子を台の上に横たえた。  ごとん、といやな音がする。  蛍光灯《けいこうとう》の真下で、彼女の肌《はだ》はいやが上にも青白かった。  すでに死斑《しはん》は境界がぼやけて、うすい紫赤《しせき》色になっているだろうが、着衣にかくれてそれは見えない。  頸《くび》から顎《あご》にかけて死後|硬直《こうちよく》がはじまったはずだが、さわってみなければわからないから、いまのところ志摩子は、眠《ねむ》っているように平和だ。  扼死《やくし》にありがちな失禁もなく、眼球|突出《とつしゆつ》も著しくなかったので、東が顔をなでてやると、すぐに瞼《まぶた》を閉じたのだ。 (しまった)  人眼にふれず、死体を運びこんだまではよかったが、東は、肝心《かんじん》の解剖《かいぼう》道具がないことに気づいた。 (控室の道具|棚《だな》は、錠《じよう》が下りている……弱ったな)  ぐずぐずしてはいられない。正規の道具を取り出せないのなら、代りのものを探さなくては。 (そうだ。大工道具があった!)  控室《ひかえしつ》の椅子《いす》の下から、道具箱をひっぱりだした東は、解剖台のそばへひきかえした。なんだってそんなものがあるかといえば、控室のドアが補修中だったからだ。プロの大工を呼ぶほどの工事でもないので、手先が器用な事務員が、道楽半分にこつこつやっていたことを、思い出したのである。  メスはないが、うまい工合にケースの中にナイフがはいっていた。切れ味は保証できないけれど、死体は痛がらないから、間に合うだろう。 「はじめるか……」  ひとつため息をついた東は、志摩子を見た。  博士の目論見《もくろみ》は、いうまでもなく彼女《かのじよ》の体をバラバラにして、始末しやすいようにコンパクトにすることだ。  かれは、行儀よく仰向《あおむ》けになっている志摩子をながめながら、服をぬぎはじめた。ジャケット、ズボン、ネクタイ、ワイシャツ。その下は、夏が近いからランニングとブリーフだけ。それもぬぎ捨てた学長は、すっぽんぽんの丸裸《まるはだか》になった。  東京一郎の名誉《めいよ》のためにつけくわえておくと、かれに屍姦《しかん》の趣味《しゆみ》はない。衣服に血がつかないようヌードになっただけのことだ。 「さて」  ナイフを手にした博士は、志摩子ののどの皮膚《ひふ》を切り裂《さ》いた。これで左手にフォークを持っていたら、人肉料理試食中の図であるが、さすがにプロの医学者、死体を前にしてもはやなんの雑念も起こさなかった。  解剖《かいぼう》に用いる鋏《はさみ》は、鋏というより押し切りに近い器具だが、大工道具セットにそんなものはない。やむなく博士は、金切鋏を使うことにした。電線を切断するように、気管食道から筋肉神経束にいたるまでちょん切っていく。すでに凝固《ぎようこ》しはじめていた血液は、予想したほど大量に流れ出さなかった。  頸椎《けいつい》を切りはなすのは、さすがにてこずったが、目立てしたばかりの鋸《のこぎり》がものをいって、とにもかくにも、志摩子の首と胴《どう》はべつべつになった。  こうしてみると、ギロチンは大した発明だ……日本最高の医師が、三十分近くかかる作業を、一瞬《いつしゆん》のうちになしとげるのだから。  つぎは腕《うで》か……それとも脚《あし》か。  思案しながら、台に沿って移動した東京一郎の眼に、はじめてはいった——階段状の見学席に、見おぼえのある男女計五人が、呆然《ぼうぜん》と立って、自分の作業を「見学」している姿が。 「ひ……ひみらち!」  東の声がうわずった。きみたち、と叫《さけ》ぶつもりだったらしい。 「いつから、そこに……」  仕事に熱中していた東は、かれらが、外部から直接見学席に通ずるドアを解錠《かいじよう》して、こっそりはいってきたことに、まったく気づいていなかったのだ。 「なんのために、ここへ来たんだ。おい! 那古屋《なごや》くん」  見学席を見上げ、東は叱咤《しつた》した。斑々《はんぱん》と血に染まった素《す》っ裸《ぱだか》の東だが、学長と万年助教授の貫禄《かんろく》の差はあらがい難く、那古屋|丸八《まるはち》は、おどおどと口をひらいた。 「はあ……それは……東会長を盛《も》りたてる、選挙の作戦を練ろうと……」  ここに集まった四人の男とひとりの女は、いわば学長の腹心ばかりだ。  かれらが呆然自失しているあいだに、簡単な紹介《しようかい》をすませておこう。  ずんぐりむっくり、典型的な中年日本人の体型をそなえているのは、ベテラン教授であり、医学部長である大坂吾朗《おおさかごろう》。  平凡《へいぼん》な教師タイプで、どこやら鈍《にぶ》そうな三十代の男が、仙田石哉《せんだいしや》。若手の教授として、学生のあいだに人気が高いのは、採点がごく甘《あま》いからだ。  メガネを光らせ、頭の禿《は》げあがった、農協職員風の男は、いま東に名指しされた那古屋である。  口をあけっぱなしにしているので、出っ歯がひどく目立つ男は、ぶよぶよふとって、年齢《ねんれい》の見当もつかない。北見九州男《きたみくすお》講師だ。  最後の女は、女といえば女だが、ブス。後ろから見れば、すらりとした背|恰好《かつこう》、脚線美《きやくせんび》がきわだって、男なら口笛《くちぶえ》のひとつも吹いてみたくなるだろうが、前に回るとその口笛《くちぶえ》がUターンしてのどに詰《つ》まるほど、見栄えがしない。よくまあこんな女性を、学長秘書にしたものと感心させられるが、聞くところによれば夫の浮気を心配した、大子夫人も安堵《あんど》したそうだ。名は京《きよう》の宮都《みやみやこ》と、優にみやびやかである。  その都が、最初に自分のペースをとりもどした。 「学長先生が、殺したんですのね」 「京の宮くん」  たしなめた大坂に、都はいいかえした。 「私は秘書でございますから、学長先生の行動を、細大|洩《も》らさずフォローいたしませんと」  あまりのことに、仙田教授は、まだ脳が正規の回転数に達しないようだ。かれは、東が股間《こかん》にぶら下げているものに眼をやって、ぼんやりとつぶやいた。 「案外大きいんだな……学長先生」  突然《とつぜん》、東はがばとタイルの床《ゆか》に手を突《つ》いた。 「たのむ……見逃《みのが》してくれ!」  見学席の五人は、だまって顔を見合わせている。 「きみたちは、みんな私のことを、むかしからよく知っている人ばかりだ……こんないい方をしたくはないが、私が目をかけてきた人たちだ……医者会選挙を記事にした週刊誌は、きみたちの名を、東京一郎直系として扱っている」  東があげた眼は、赤く充血《じゆうけつ》しきっていた。 「現にきみたちは、私を盛《も》りたてようと、秘密裡《ひみつり》に選挙対策をたてるため、ここへ来たといっている」  ひらたくいえば、だれを抱《だ》きこむか、どこへ金をばらまくかという相談だろうが、それはこの際関係ない。 「なぜきみたちが、それほどまで力をいれて、私を支持してくれるのか……答えはひとつ、きみたちにとって、利益があるからだ。私が医者会長に選ばれれば、きみたちの本学における地位は、一段と向上する! そこで私は、約束しよう」  むくむくと立ちあがって、東も、やっと全裸《ぜんら》の自分を発見した。ぬぎ捨てた衣服のところへとんでいって、上衣で下半身をかくしながら、なおも胸を張った。 「来学期開始と同時に学長の地位を退き、後任に大坂くんを推薦《すいせん》する」  大坂部長の、押《お》しの強そうなげじげじ眉《まゆ》が、ちょいと動いた。 「空《あ》いた医学部長を、仙田くんがつとめられるよう、徹底的《てつていてき》にプッシュする」  仙田がのろのろした動作で、学長を見直したころには、もうつぎの約束にうつっていた。 「那古屋くんには、教授の椅子《いす》が待っている」  東西大学の窓際族だった那古屋は、思わず笑《え》み崩《くず》れそうになり、いそいで頭を下げてごまかした。 「そして北見くん、きみは」 「助教授。さいですな……ありがたい!」  はしっこい北見は、学長のことばを先取りした。 「私はどうなりますの」  と、都が訊《き》く。鈴《すず》をふるような声だった……彼女は背中美人であるが、声美人でもある。 「まさか私まで、教授にしてくださるんじゃないでしょう」 「きみを、つぎの学長秘書に推薦し、あわせて給与の改善を図る」  この女が秘書……大坂が苦い顔をしたので、東はあわててつけくわえた。 「秘書の定員を二名にしよう」 「もうひとりは、私の自由な裁量で決めてよろしいですな」  と、これは獅子《しし》が吼《ほ》えるように迫力のある声だ。  公約をすませた東に代って、大坂が一座をねめつけた。 「諸君のご意見を聞こう……学長を殺人罪で告発し、東西大学にマスコミの集中砲火をあつめるか、それとも学長の死体|隠匿《いんとく》に協力し、約束の報酬《ほうしゆう》を頂戴《ちようだい》するか」  議論の主題であるべき志摩子の首は、ひっそりとステンレススチールの上にころがっていた。  第一章 こんにちは幽霊《ゆうれい》さん     1 「では……」  と、大子《だいこ》夫人が丁寧《ていねい》に頭を下げる。 「はあ」  と、軍太《ぐんた》が、これはそっけなく、下げる動作より上げるアクションの方が目立つようなお辞儀《じぎ》をかえす。 「どうぞよろしくお願いいたします」  にっこりほほえんで、それで子どもべやを出ていくのかと思えば、そうではない。 「秀ちゃん、お勉強でしょ。机の上を片付けなくっちゃ」  又ぞろへやにはいってきて、秀介《しゆうすけ》が手を出そうとするより早く、机上に散らばっていたジグソーパズルのピースやら、テレビゲームやらを本箱の上に移す。 「ほんとにもう……やる気出して頂戴《ちようだい》な。パパだって、心配していらっしゃるのよ」 「うん」  無愛想という文字を、顔に貼《は》りつけたような表情で、秀介が答えた。  そのとなりの椅子《いす》に、浅く腰《こし》を落とした岩手《いわて》軍太は、もじもじしている。  いつもこうだ、東《あずま》家の奥《おく》さんは……おつぎは鉛筆《えんぴつ》を削《けず》ったかと聞くぞ。 「秀ちゃん。鉛筆は削ってあるの」 「…………」  答えるのも面倒《めんどう》らしく、秀介はとがった顎《あご》を少しばかり引く。  それから、花に水をやろうというんだ。 「そうそう、お花にお水をあげましょうね。秀ちゃんはいいのよ、ママがするから。あなたはお勉強、お勉強」  やっとドアをあけて、廊下《ろうか》へ出た。夫人の姿が消えても、ふたりはまだ行動を起こさない。  なぜなら、夫人がもう一度顔を出すからだ。  ぎい。  ほら、ドアがひらいた。 「岩手先生。お紅茶がよろしいかしら、おコーヒー」 「紅茶でけっこうです」 「はい、かしこまりました。では……」  ふたたび、深々と頭を下げてからドアを閉ざす。 「…………」 「…………」  家庭教師岩手軍太と、生徒である中学一年生東秀介は、無言のまま大きくのびをした。やれやれ、やっと解放された! という思いで胸がふくらむ。互いに顔を見合せて、にやりとしたとき、今日ばかりは例外的に、もういっぺんドアがひらいた。 「あの、先生」 「…………!」  あげた両手のひっこみがつかず、軍太は、秀介にむかって声をはげました。 「さ、もっと勢いよく! 一、二! 一、二!」  のみこみの早い秀介は、軍太に合せて、自分の腕《うで》を上下させた。 「準備体操は、そのへんでいいだろう…………お待たせしました、奥《おく》さん」  はじめあっけにとられていた夫人は、状況《じようきよう》を理解してにこにこした。 「まあ、お勉強の前の運動でしたの」 「勉強に必要なのは、精神の集中力です。だが、一定時間以上精神を集中させるには、体力がいります」  軍太は、日ごろ予備校でいわれていることを、受け売りした。なにしろかれは、東西大学医学部の門をたたくこと三度、そのたびにしくじって、目下三浪中のベテラン受験戦士である。 「さようでございましょうねえ」  ほっそりと頼《たよ》りなげなわが子を見て、夫人は大きなゼスチュアをした。 「それであの、お紅茶にはショートケーキがよろしいかしら。フルーツでもお持ちしましょうか」  左党の軍太はうんざりした。どうせ紅茶に添《そ》えてくれるなら、安物でいいからブランデーといきたいところだった。 「果物でいいです」 「かしこまりました。では……」  最初のデハから三度目のデハまで、たっぷり五分はかかっている。 「こんどこそ大丈夫《だいじようぶ》だろう」 「うん」 「じゃあぼつぼつ……」  軍太はカバンをひろげた。 「テストは全部すませたのかい」  と、秀介が訊《き》く。 「どうやらこうやらね」 「いくらおしまいまで答えを書いても、ちがっていては、意味ないんだぜ」 「わかってるよ。さあ、見てくれ」  机の上に置いた答案を、秀介が一瞥《いちべつ》する。 「これ、ちがう。……これもだめ。……これも。先週注意したじゃないか」  いつの間にか赤|鉛筆《えんぴつ》をもちだした秀介が、かたっぱしから採点していく。  どう見ても、中学の問題ではなかった。高校三年……いや、もしかしたら大学受験の模擬《もぎ》テストかもしれない。 「打率七割三分ってとこだね」  秀介は首をふった。 「三浪してこのレベルじゃあ……気の毒だけど軍太先生、来年も楽観できないぜ」 「だ、だからこうして、きみに教えてもらってるんじゃないか!」  と、軍太はむきになった。 「責任をもって教えてくれないと、きみの正体が、ほんとはもの凄《すご》いIQのもちぬしだってこと、パパやママにばらしちゃうぞ」 「冗談《じようだん》はよし子さん」  秀介が、真顔で手を合せた。 「ぼくがそんなお化けみたいな子どもだと知ったら、両親は絶大な期待をかけるだろう。ぼくはただ、平和で安穏《あんのん》な生涯《しようがい》を過したいだけさ。芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》が『侏儒《しゆじゆ》の言葉』で描いた、あの心境だからね」  夫人の前では決して見せない、おとなびた——そして、そのおとなであることに倦《う》んでいる表情が、秀介の顔にひろがった。 「そんなことより、さあ、軍太さん。がんばってよ」 「あ……ああ」  生徒に励まされて、軍太は体をしゃんとした。  思えばラッキーであった。 「就職ニュース」誌上で、東家の家庭教師募集を知った軍太が、すぐ応じたのは、目指す東西大学学長東|京一郎《きよういちろう》邸に出入りする内に、なんらかのコネができればといういたってセコい考えだったのだが、いざ秀介を教える段になって、ぶったまげた。  母が立ち去ったのをみすまして、秀介は、やにわにヴェールをぬぎ捨て、大天才の本性をあらわにしたのである。  こころみに提示した軍太の問題を、秀介はせせら笑って一分以内に解いた。  東夫人が、在米のペンフレンドと思って気を許している相手が、実はコロラド州立大学の理学部教授であって、秀介は、ふたりの共作による論文で、来年のノーベル賞を狙《ねら》おうとしていた。  両親に内緒《ないしよ》で、パソコンのプログラム、主としてテレビゲームの新作をつぎからつぎへひねりだし、大金を稼《かせ》いでいることもわかった。 「だけどぼくにも、ウィークポイントはある」 「はあ。……それはなんでしょう」  いい年こいた若者が、見たところガキの秀介に丁寧《ていねい》なことば遣《づか》いをするのは妙なものだが、そういう点、軍太は、実に素直な人柄なのである。 「運動神経に欠陥《けつかん》があるらしい。……天は二物を与《あた》えずとは、至言だね」 「なるほど」  そういえば軍太は、スポーツならなんでもこいだ。小学校では少年野球チームをひきい、中学では水泳部を牛耳《ぎゆうじ》り、高校では空手《からて》に首を突《つ》っこんだ。  よくいえば器用だが、わるくいえば気の多い男で、そのせいかガールフレンドをとっかえひっかえ、いまだに決定版にぶつからない。  これも早くいえば、ふられてばかりいるせいだけれど。 「おれは運神なら、自信があります」 「だからあなたは三浪している。ね、天は二物を与えずだろう」  なんだか馬鹿《ばか》にされたみたいだが、事実だから、軍太はうなずいた。 「そこで交換《こうかん》条件。……あなたに東西大学受験のコツを伝授する代り、ぼくを鍛《きた》えてほしいんだ」 「そういうことなら、まかせてください」  軍太はどんと胸をたたいた。セーターの上からも、ぶあつい筋肉の束《たば》が看《み》て取れる。子どものころから野良《のら》仕事にはげんでいたおかげで、都会人とちがって、運神ばかりではなく筋力、体力に自信があった。 「もちろん、ママにはあなたに教えてもらっているふりをする。テストのたびに加減して、徐々《じよじよ》に成績を向上させるから、あなたについて、ママの信頼《しんらい》は絶大なものとなり、——ひいてはあなたのギャラも増加する」 「ありがたいな」 「その昇給分は、折半しよう」 「折半?」 「ぼくだって、あなたへの指導料をもらう資格があるんじゃない?」 「……ごもっともです」 「まさかこの家で、ぼくを鍛えるわけにいかないから、図書館へ行くと称して、外へ出よう」 「ご希望の運動種目はあるんですか」 「ある。水泳だ」  いくら運神がコンマ以下だからといっても、陸上競技ならなんとか同級生についていける、と秀介は説明した。 「ランニングの場合は、その日の風向、気温を計算して、もっとも効率の高いスタートの姿勢をとることができるし、キャッチボールの場合は、ボールが相手の手をはなれた瞬間《しゆんかん》のベクトルを察知して、到達《とうたつ》位置がほぼ予想できる。水の中ではそうはいかない」  要するに、金槌《かなづち》なのだ。 「いくら人間の比重は〇・九なにがしで、水に浮くのだと自己暗示をかけても、ぼくは沈む。実に心外だ」  秀介はくやしそうな顔をした。 「ぼくの通っている学校では、夏休みになると海で合宿する。クラスメートの中で泳げない者は、ぼくひとりだ。なにがなんでも今年は泳いでやる。……軍太先生、協力を頼《たの》みます」  ……そういうわけで、まことに変てこりんな、教えつ教えられつの関係が成立したのだ。  ひと通り秀介に軍太がしごかれると、こんどは秀介が軍太にしぼられる番となる。 「ママ、行ってまいりまーす」 「あら、今日も図書館?」 「はあ、個室でばかり教えていますと、学校のように周囲に他人のいるところでは気が散って、せっかくの実力も百パーセント発揮できません」 「それもそうだわね。だから、わざと図書館の閲覧《えつらん》室で勉強するのね。岩手先生らしいアイデアだわ。行ってらっしゃい……がんばってね!」  もちろん、秀介は大いにがんばる。  区立図書館に隣接《りんせつ》する屋内温水プールで、水しぶきをあげていた。 「おらおら! 足に力がはいりすぎてる! 膝《ひざ》を曲げるんじゃない! 腿《もも》で水をはさむつもり! へたくそ、そんなバタ足で前へ進むか! はじめっからやり直せ!」  六月の声を聞くこのごろ、他人|行儀《ぎようぎ》なことばもかなぐり捨てて、教える岩手軍太の方も夢中《むちゆう》だ。  熱心なわりに、秀介の進歩はカタツムリのようにおそい。たしかに脳細胞と運動神経のシナプスのあいだが、ちょん切れているらしかった。 「あうっ……あうっ」  オットセイみたいな声をあげて、秀介は死にものぐるいである。足の蹴《け》りが弱いから、前進どころか浮力がつかず、ともすると呼吸器官が吃水《きつすい》線下に沈んでしまう。  ネズミ捕《と》りごと水に沈《しず》められた、瀕死《ひんし》のドブネズミよろしく、顔をゆがめて秀介は水をけたてた。周りで泳いでいる連中は迷惑顔だが、少年の懸命なトレーニングぶりに気づくと、苦笑して見逃《みのが》してくれる。  ことばだけ聞いていると、小生意気な天才ガキだが、さすがかれにはガッツがあった。  はじめて水へたたきこんだときは、プールの底に沈没《ちんぼつ》して、軍太をまっ青にさせたほどだ。かれのスパルタ訓練に、秀介はよく食い下った。 「……それにしても、きみの進歩はおそいなあ!」  プールサイドのスナックで、ピザパイにかぶりつきながら、軍太が慨嘆《がいたん》すると、秀介は大真面目《おおまじめ》でうなずいた。 「教育者は、しばしば『結果は問わない、努力が大切だ』というが、あれはうそだね。いくら努力したって、結果が思わしくなければナンセンスだよ。オリンピックは、参加することに意義があるんじゃない。勝って国威《こくい》を宣揚《せんよう》するところに意義がある……それが選手や各国オリンピック委員会の本音にちがいないよ」  軍太にとって不幸な——考えようによってはラッキーな——事故が突発《とつぱつ》したのは、その屋内プールからの帰り道であった。     2 「軍太先生。これ、またあずかってよ」 「おいきた」  秀介が渡《わた》そうとしたのは、ビニール袋《ぶくろ》にはいった水泳パンツだ。図書館へ往復するのに水泳パンツは要《い》らないはずだから、軍太がいつも秀介のぶんまでアパートに持ち帰っている。  そのとき、前方からトラックが走ってきた。  軍太に渡すつもりで、袋を落とした秀介は、それを拾おうとひょいとかがんだ。  少年をかすめて、トラックはカーブを切りながら走り去った。  いや、走り去ろうとしたとき、荷台を占領していたヌードの美女のひとりが、秀介めがけて躍《おど》りかかったのである。  むろんそれは軍太の一瞬《いつしゆん》の錯覚《さつかく》で、トラックが積んでいたのは数十体のマネキン人形だ。積み方に手ぬかりがあったとみえ、カーブを切るはずみに、一体が路上へ落ち、あわや秀介にぶつかろうとした。 「あぶない!」  とっさに軍太は、秀介を突き飛ばしたが、急なことで足がよろけた。そこへマネキンが抱《だ》きついてきたものだから、かれは全裸の美女を抱擁《ほうよう》したまま、仰向《あおむ》けに倒《たお》れた。  異常に気づいたトラックが急ブレーキをかけたが、それより早く、秀介はアスファルトの上に長くなった軍太に飛びついた。 「先生! しっかり!」  呼びかけたが、青年は、うんともすんとも答えない。  IQばかり高くても、秀介はまだ子どもだ。もそもそ降りてきたトラックの運転手に、パニックめいた金切り声をあげた。 「頭を打ったんだ! いそいで! 軍太先生を病院へ!」  脳の検査をするには、大病院にかぎる。  そう考えた秀介は、すぐ父親が学長の椅子《いす》に坐《すわ》っている東西大学医学部附属病院を思い出した。 「あそこなら近いよ。経堂《きようどう》の東西大学!」  トラックの運転手は、猛スピードで東西大学にむかった。  そのあいだに、運転席を見回した秀介は、トラックの所属会社と、運転手の名を記憶した。  運転席後部の仮眠ベッドに横たえられた軍太は、目をさます様子もない。 (まさか死にやしないと思うけど……頭を打ったから後遺症が心配だな)  父の学長に連れられて、なんべんも来た東西大学だから、勝手を知っている。 「つぎ二本めの道、右……突きあたって左へ百メートル」  医学部正面入口の車寄せにトラックをつけて、秀介は、受付へかけこんだ。  どこの坊主かと高をくくっていた受付の看護婦が、学長の息子《むすこ》と聞いてとびあがった。あいにくの土曜で、学長も大坂《おおさか》医学部長も留守だったが、当代の脳外科の権威林谷《けんいはやしや》教授にコンタクトがとれて、昏々《こんこん》と眠ったきりの軍太は運ばれていった。  いつの間にか、運転手はトラックごと消えている。  だが秀介は、気にしない。中学生と思ってなめたのかもしれないが、秀介の脳味噌《のうみそ》のしわには、会社の電話番号までぴしゃりと刻みこまれているのだ。  そんなことより、軍太の検査の結果が、どう出るか。  いらいらする気持を押《おさ》えて、秀介はおとなしく待った。ぴんと背筋をのばした少年が、固い廊下《ろうか》のベンチに腰《こし》を下ろしている前を、いく人もの白衣が通り過ぎていく。  あまり時間がかかるようなら、ママに電話しなければならない……プール帰りだったことは、なんとかごまかせるだろう。  心配するほどのこともなく、検査室のドアが開いて、看護婦が秀介を呼んだ。 「どうぞ」  メガネを光らせたいかつい顔の女だったが、ベンチの秀介には、白い歯を見せた。学長の息子だからというより、ひとり心細そうにベンチに腰かけた少年の姿が、女の母性愛をくすぐったのだ。実際秀介は、年よりも子どもっぽく無邪気《むじやき》に見え、当人もその利点を最大限に利用している。 「はい!」  きびきびとした動作で、秀介はドアをくぐった。金属的な光沢《こうたく》をはなつ医療《いりよう》機器のそばで、ベッドに仰臥《ぎようが》していた軍太が、首を曲げて秀介を迎《むか》える。 「よう」 「軍太先生」  秀介はほっとした。この分なら脳波に異状なさそうだ。 「心配かけたね」 「心配なんかしやしない」  秀介は笑った。 「先生みたいにタフな男が、マネキンとキスしたくらいで、へたばるもんか」  ねえ、というように軍太の枕《まくら》もとに立っている林谷教授に視線をうつした。  うなずきかえすかと思ったが、意外にも教授はほんの少しためらいの色を見せた。 「検査の結果はまずまずでした」  奥歯《おくば》にもののはさまったような言い方だった。 「なヌか問題がありまスたか」  軍太が顔をこわばらせた。つい、お国訛《なま》りがまざってしまう。 「いや……脳波を増幅した過程で、若干の乱れが見えるんだが、単なるノイズでしょう。心配いりませんよ」  患者《かんじや》をなぐさめるように、教授はいいきった。 「ノイズですか。そうですか」  気のいい軍太は安心してみせたが、なんのことだかわからない。 「万一異状が見られるようなら、すぐ連絡《れんらく》を下さい」  教授は、軍太も学長の縁つづきと勘《かん》ちがいしたのか、丁重なことばでふたりを送り出した。  廊下《ろうか》へ出てから、秀介は、 「あ」  と声をあげた。 「警察に届けなくっちゃ……あわててたんで先生にも看護婦さんにも、事故のことろくろく説明してないんだ」 「やめとけよ」  ひきかえそうとした秀介を、軍太が止めた。 「かすり傷も負わなかったのに、大げさにさわぐことはない」 「いいの、軍太先生」 「ああ……ひょっとしたら、あのトラックの運ちゃんだって、出稼《でかせ》ぎかもしれない。……それに、くわしく調べられたら、おれたちが図書館じゃなくプールへ行ってたことが、ばれるだろう」 「そいつはまずいや」  秀介が肩《かた》をすくめた。 「やっぱり届けるのはやめよう」  もしこのとき、軍太が止めなければ——検査室にもどった秀介は、林谷教授が、看護婦と交わしたつぎの奇妙《きみよう》な会話を聞くことができたろう。 「脳波が乱れるというより、消えるのだよ、きみ。そんなケースが想像できるかね」 「おっしゃる意味が、よくわかりませんが……波型が崩《くず》れて、フラットになるのでしょうか」 「それでは患者《かんじや》は、脳死したことになる。そうじゃないんだ。突然波が消え、すぐにまたあらわれる。たとえていえば、その瞬間、脳波が別次元へ転移したような……虚《きよ》の世界と実の世界を振子《ふりこ》運動しているような……」 「一定のサイクルで?」 「いや、ちがう。消滅と出現のリズムが次第に早まって、みるみる脳波は連続性を回復した」 「では、やはり異状なかったんですわ。機械の故障じゃないかしら。明日にでも業者を呼んでおきます」 「それならいいのだが……実はまだ、あの青年の頭の中で、脳|細胞《さいぼう》が突拍子《とつぴようし》もない活動を演じているとしたら……」 「だって、脳波はノーマルな形にもどったんでしょう」 「私の目に、そう見えただけ、という可能性がある……ゼロにむかって無限に収斂《しゆうれん》していく数列と、真正のゼロはちがうのだ。交流を電源に仰《あお》ぐ照明は、実は毎秒五十|乃至《ないし》六十回のリズムで、明と暗をくりかえしている。しかし、人間の目にはのべつまくなし点灯しているように見える……それとおなじ理由で、かれの精神活動は一見まっとうだが、実は途方《とほう》もない領域に触手《しよくしゆ》をのばしつつあるのではないか……かれ自身、まったく気づかない内に……」     3 「おれの脳波にノイズがあるといいやがった」  軍太はぼやいた。 「おれ、自分がラジオのスピーカーになったような気がした」 「心配しなくても、まだ人間だよ」  煉瓦《れんが》をならべた花壇《かだん》のへりを、そろりそろりと歩きながら、秀介が答える。 「顔が四角くて、声が大きいところは似てるけどね」  東西大学医学部の中庭は、手入れがよくゆき届いていた。目玉がとびだすほどの入学金、さらにその二乗に比例して裏口入学金が高いという噂《うわさ》だから、とびだした目玉でハムエッグができるくらい、お金持の大学なのだ。  もっとも、金はあっても草花に趣味《しゆみ》のある先生はいないとみえ、広い庭にはツツジありライラックありエニシダあり、バラ園のむこうに藤棚《ふじだな》があるという調子で、自・社・民・公・共・合同運動会みたいな花盛りだった。 「よくわからんな……ノイズってのは、雑音てことだっけ」  煉瓦が尽《つ》きて、白塗《ぬ》りの柵《さく》になったので、秀介は園路へ飛び降りた。 「ああ、それはね。医療《いりよう》機器にかぎらずあらゆる電気回路に共通する特徴《とくちよう》なんだ……たとえ入力|信号《しんごう》を加えなくても、ランダムな動揺が回路内に発生するのは、物質の性質そのものに由来しているから」 「へえ」  なおさら軍太は、わからなくなった。 「原因は、抵抗内における電子の不規則運動だよ。温度上昇に伴って、この種の電気的雑音はいっそうはげしくなる」 「つまり、おれの頭がちょっぴり狂《くる》ったように見えるけれど、それは多分、検査する機械の方がもともと狂っていたせいだ——ということか」 「そう、そう」  秀介はにこにこした。 「要約がうまくなったね、軍太先生。模擬《もぎ》テストをくりかえした教育効果が、あがったんだ」 「しかし……」  と、軍太は少々深刻な面持になった。 「狂っているのが機械じゃなくて、おれの脳味噌《のうみそ》の方だったとしたら」 「かえって正気になると思うよ」 「なんだって」 「マイナスにマイナスをかけたら、プラスになるだろ」 「この野郎。まるでおれが、はじめからイカレていたみたいなことをいいやがる」  軍太がふりあげた拳骨《げんこつ》を見て、秀介は笑いながら花壇《かだん》をぬって逃《に》げだした。 「待て」  追いかけようとした軍太が、低い声を洩《も》らして立ちすくんだ。  秀介が駈《か》けてゆく先に、藤棚《ふじだな》がある。藤棚からは、紫《むらさき》色の藤の花がさがって、重たげに豪華《ごうか》に誇《ほこ》らかに咲ききそっている。  藤棚に藤の花が咲くのは当たり前だ。だがその下にうら若い美女が、破れたワンピースから胸のふくらみを垣間見《かいまみ》せて、しょんぼり立っているのは——当たり前の風景とはいえなかった。 「しゅっ、しゅっ」  軍太は口をとがらせた。SLの声帯模写をやるつもりはない、「秀介」と呼ぶつもりだったが、あまりのことに舌が回らないのだ。  美女は近づく秀介を見、当然秀介も彼女《かのじよ》に気づいているだろうに、一散走りの足を止めようとしない。 (秀介め。ガキのくせにあんなスケベとは思わなかった!)  それにしても、美女はどこからあらわれたというのだろう。ははあわかった。この大学病院には、精神科もふくまれているにちがいない。きっと彼女は、そこから脱走《だつそう》した患者《かんじや》なのだ。気の毒に……すぐ、看護婦に知らせよう。  あたりを見回すと、白衣の天使と形容するには、少しばかりとうのたった看護婦が通りかかった。 「彼女を、なんとかしてやってください!」 「彼女?」  看護婦はきょとんとしている。 「だれのこと」 「あそこにいるでしょう、あそこ……藤棚の下」  エチケットとして、セミヌードの彼女をふりむかないよう、腕だけ後ろへのばして指さした。 「藤棚って……だれもいませんよ」 「えっ」  軍太は面食らった。 「男の子が走っていくだけ」 「そんな馬鹿《ばか》な」  やむなく軍太は、ふりかえった。  たしかにいる。  若さに似合わぬ渋いモスグリーンのワンピースがずたずたに裂《さ》けたまま、途方《とほう》に暮《く》れたように佇《たたず》んだ彼女の姿態は変らない。 「ちゃんとあそこに」  立っているじゃないか、と怒鳴《どな》ろうとして、軍太は大きく息を吸いこんだ。  走り去る秀介の姿が、美女のそれに重なり合ったのだ。ちょうど、映画の場面|転換《てんかん》みたいに、ふたりの体がミックスされ、秀介の姿はたちまち見えなくなった。 「どこにそんな女の人がいるんです」  看護婦は、軍太をじろじろとみつめた。まるで人間の値踏《ねぶ》みをしているような眼だ。  答える余裕《よゆう》もなく、軍太は横に動いた。  ちょっと角度を変えると、秀介がまた見えるようになった。立ち止まった少年は、こちらにむかって、笑って手をふっている。  それでも軍太は、棒のように立ったままだ。 「…………」  あまり長く息を吸いこんでいたので、窒息《ちつそく》しそうになった軍太は、あわてて息を吐《は》いた。 「おかしな人」  いい捨てて立ち去る看護婦を、もう見向きもしない。  いまのは、なんだ?  おれは、なにを見たのだ? 「どうしたのさ」  秀介がとんできた。 「頭痛がするのかい」 「秀介くん……」  少年の問いに答えず、軍太は、もう一度|藤棚《ふじだな》の下を指さした。 「あそこにいる女性が、きみに見えるか」 「どこ、どこ」  秀介がきょろきょろした。 「女性って、あの人のこと」  病院の見舞《みま》い帰りらしいおばあさんが、杖《つえ》を頼《たよ》りにゆっくりと歩いている。 「もっと若い! 美人だ!」 「そんな人、いないよ」  秀介は、はじめふしぎそうに——それから心配そうな目つきになって、軍太を見上げた。 「若くてきれいな女性って、どんな恰好《かつこう》してるんだい」 「破れたワンピースを着ている。まるで、暴行を受けたみたいな……」  相手が中学生であることを思い出して、軍太は口をつぐんだが、秀介はさてはという表情をつくった。 「まずいよ、軍太先生。それはきっと、幻覚《げんかく》だ」 「頭を打ったせいで、ありもしないものが見えるというのか?」 「破れた服の女なんて、欲求不満の生んだ妄想《もうそう》にきまってる」 「………」  軍太は、いそいで目をこすった。  秀介のいうことにも一理ある。だいたい軍太は、女にもてるタイプではなかった。そのくせ困ったことに、心身強健で勉強とバイトの時間以外はおそろしいほどヒマだ。いうまでもなく、遊ぶ金がないためである。  自分ひとりだって遊べないのに、まして女を遊ばせる金なんて、逆立ちしたって出てこやしない。  いつぞや週刊誌でホストクラブの記事を読み、おれもやってみようかと考えたことがあったが、鏡と相談した結果すっぱりとあきらめた。  筋骨隆々《りゆうりゆう》はいいのだが、なにせ足がみじかすぎ、胴《どう》回りがふとすぎる。いまどきもっともはやらない、松の木の根っこみたいな造作の軍太であった。 「欲求不満の生んだ妄想《もうそう》」といわれて、胸板を出刃|庖丁《ぼうちよう》でえぐられたような気がした軍太は、たっぷり一分と三十秒ほど目をこすってから、あらためて藤棚《ふじだな》の下に目をやった。  果たして美女は——消えていた。  軍太は大きなため息をついた。 「もう見えなくなった?」 「ああ」  ほっとしたような、惜しかったような気持である。 「大丈夫《だいじようぶ》かい。なんなら教授のところへ、ひきかえそうか」 「やめとく。おれは医者がきらいだ」 「ちぇ。それが医学部志望のいうせりふかね」  無駄口《むだぐち》をたたきながら、コの字型の中庭をぬけて、いかめしい門構えの見える前庭へ出たとき、 �あのう�  という声が耳にはいった。 「え」  足を止めた軍太は、秀介にたずねた。 「なんかいったか」 「いわないよ」 �あの、もしかしたら……� 「なにがもしかしたらだ」 「ぼく、いわないってば。いやだな、今度は幻聴《げんちよう》なの」 �後ろにいるんですけど……�  と、秀介の声にわりこんで、はっきりと女のことばが聞えた。 「後ろ?」  ふりかえった軍太は、カクッと口をあけっぱなしにした。のど仏が拝めそうに大きな口だ。  無理もない。消えたと思った美女は、軍太の背後にいたのである。 �そんなにおどろかないでください�  破れたワンピースを、片手で持ちあげながら、美女がいう。 �でも、やっぱりあなた、私が見えるのね。声も聞えるのね。うれしいわ!� 「き……聞える……」  膝《ひざ》の皿《さら》ががたついて、軍太はいまにも、その場へ坐《すわ》りしょんべんをやらかしそうになった。  聞えるとかれはいったが、厳密には、美女の声は鼓膜《こまく》を震《ふる》わせているのではない。じかに脳の一部を刺戟《しげき》して意味を伝える——テレパシーの一種らしいのだが、いまの軍太はそれどころではなかった。 「軍太先生」  秀介が、かれの体をゆすった。 「また欲求不満がはじまったの?」 �なあに、この子�  と、美女が口をとがらせる。 �あなたの弟?� 「いや……生徒なんだ」 �道理で、あなたよりずっとかわいらしい顔してる�  器量はいいが口のわるい女性だ。 �欲求不満がどうだっていうのよ� 「つまり……そのせいで、きみが、おれにだけ見えるんだと……」 「だれとしゃべってるのさ、軍太先生。さっきの、暴行を受けた女の人?」  どうやら軍太以外の人間には、女の姿が見えないばかりか、声も届かない様子だ。  人気《ひとけ》のない前庭だから良かったものの、軍太のこの有様を精神病医が見たら、うけあい、検査室へ回れ右である。 「き……消えろ、妄想《もうそう》」  口走ってから、軍太はいそいでいい直した。 「どうぞ、消えてください」  顔と図体に似合わず、かれは礼義《れいぎ》正しい青年なのだ。 �いやあだ�  美女は鼻の頭にしわを寄せた。間近に見ると、すばらしく生き生きとした表情のもちぬしである。 �私はあなたの妄想なんかじゃないわ……れっきとした人間よ!� 「そのれっきとした人間が、おれにだけしか見えんというのはおかしい」 �だって私は殺されたんだもの!�  美女がべそをかきそうになった。破れめを押えた手がお留守になり、白くて形のいい右の乳房がべろんと出たが、美女は青年にとりすがらんばかりだ。 �助けて頂戴《ちようだい》、私を!� 「助けてくれといいたいのは、おれだ」  と、軍太はへっぴり腰《ごし》である。 「殺されたのか……するときみは、妄想《もうそう》じゃなくて、幽霊《ゆうれい》なんだ!」 「殺された——?」  秀介が、口をはさんだ。それまでのあいだ、軍太のひとり芝居《しばい》を、憮然《ぶぜん》とながめていたかれが、はじめて興味らしいものを示した。 「へえ、そうなの。軍太先生が話しているのは、幽霊なの………おもしろいな」  秀才とは、妙《みよう》なことをおもしろがるものだ。 「いったいだれに殺されたのさ」 �ここの学長よ!� 「学長」  軍太はまたも仰天《ぎようてん》した。 「というと……東京一郎先生!?」 「ふえっ」  さすがの秀介も、形容し難い唸《うな》り声をあげた。 「ぼくのパパが、殺したんだって!」     4 「大切な用件ができた? なんのことです。いってごらんなさい」  受話器が、大子《だいこ》夫人のフリージングされたような声を、耳もとへ送りこんできたので、秀介は顔をしかめた。 「だからさ……軍太先生と、男同士の話し合いを」 「ごまかさないで、秀ちゃん」  夫人がきめつけた。 「ママにいえないようなこと? 大切な用だなんていって、『機動戦士ガンダム』でも見にいくんでしょう」 「ちがうよ……ママは、ぼくを信用してくれないの」 「信用しませんよ。あなたが百点をもらうまではね」  このときばかりは、秀介も、ふだん鈍才《どんさい》を擬装《ぎそう》していたことを後悔《こうかい》した。  久米志摩子《くめしまこ》と名のった美女の話は、聞けば聞くほど重大な内容である。とうてい路傍《ろぼう》の立ち話で片づくような問題ではない。ひとり息子《むすこ》の時間管理にきびしいママをごまかして、ゆっくりミーティングしようと思ったのだが。 「どんな御用なのか、教えてくれれば考えてあげます」  夫人はそういうが、あなたのご主人は殺人犯です、なぞと告げようものならヒステリー症状《しようじよう》を起こすに決まっている。息子として、秀介は母のそんな惨状《さんじよう》を見るに忍びなかった。 「もういいよ。まっすぐ帰るよ」  がちゃんと電話を切る。秀才秀介の唯一《ゆいいつ》の泣きどころが、この子ども思いの母親なのだ。  ボックスから出てきた秀介を見て、軍太が苦笑いした。 「交渉《こうしよう》は不調らしいな」 「帰る道みち、話を聞くほかないや」  といっても、志摩子のはなつ精神波による意思表示は、軍太という通訳を介《かい》さないかぎり、秀介の耳に届かないのである。  仕方なく軍太と秀介は、志摩子の亡霊《ぼうれい》を中にはさんで歩きだした。 �やだ、軍太さん。そんなに私にくっつかないで�  と、志摩子が秀介の方へ身を寄せる。 �なにをいってるんだ。いくらくっついたって、感じやしないだろう�  軍太は、志摩子が漂《ただよ》っている空間へ、手をのばした。 �きゃあ�  彼女は悲鳴をあげてとびのいたので、体の三分の二までが秀介とダブってしまった。 �チカンでーす� �よせよ。そんなところへ逃げこまずに、こっちへ出てきてくれ。おれ、乱視になりそうだ� 「幽霊《ゆうれい》さん、いまぼくの体と重なってるのかい」  秀介が気味わるそうに、きょろきょろして、服についた埃《ほこり》などをはらった。 �幽霊さんなんて、呼ばないで� 「おい秀介。幽霊呼ばわりするなって、彼女が文句いってるぞ」 「じゃ、なんていえばいいのさ。……亡霊とか」 �そんなんじゃ、お岩《いわ》だわ� 「お岩と間違えるな」 「んなら、もののけとかスピリットとか」 �名前で呼んで頂戴《ちようだい》、名前で� 「志摩子って名前がある」 「ああ、そうか。……それにしても、通訳業は大変だな」 「仕方がない。おやじさんのしでかした不始末だ。きみだって、聞いておきたいだろう」 「もちろん」  といってから、秀介はため息をついた。 「親が子の尻《しり》ぬぐいをするならわかるけど、そのあべこべなんだ……世はさまざまだねえ。なまじ賢《かしこ》く生まれつくと、苦労が絶えないよ」  三人はというべきか、ふたりはというべきか、とにかく一行は東西大学の最寄《もよ》り駅である、小田急《おだきゆう》線の経堂《きようどう》駅に足を運んだ。  ついでながら、古来幽霊には足がないというのが定説であったが、このできたての幽霊志摩子には、足がある。それも細からず太からず、男ならたとえ蹴飛《けと》ばされても、しがみつきたくなるような脚線美だ《きやくせんび》。  軍太が、自動|販売機《はんばいき》で買った切符《きつぷ》三枚を、改札口《かいさつぐち》で示すと、駅員が妙《みよう》な顔をした。当然だ、かれには志摩子は見えないのだから。  気がついた秀介が、 「先生、一枚余分じゃないか」  切符を取りかえしてくれたものの、 「くそ。八十円損した」  電車に乗ってからも、軍太はまだぼやいている。  土曜の夕方近く、準急|相模大野《さがみおおの》ゆきであったが、車内は混んでいた。できるだけ車両の隅《すみ》に身をひそめ、声もひそめて、軍太が志摩子の死にいたる一部始終をたずねた。 �……そういうわけで、学長先生が、私をばらばらにするつもりで準備していたところへ、部長たちがはいってきてしまったの� 「そりゃあ学長も困ったろう」  軍太がつい口に出すと、しびれをきらせてかれの通訳を待っていた秀介が、催促《さいそく》した。 「パパが、どうしたって? じれったいな、同時通訳しておくれよ」 「うん。……いや、かいつまんでいえばね。きみのパパは、彼女にアタックしてふられて、かっとなって殺しちまった」 「いいとこないなあ、パパ……どうやって、志摩子さんを殺したのさ」 「のどを両手でつかんで、こう」 「扼殺《やくさつ》だね。パパによくそんな力があったもんだ」  目の前のシルバーシートに腰《こし》を下ろしていた老婆《ろうば》が、ぎょっとしたように、軍太と秀介を見くらべた。  その気配に、秀介がちゃっかり解説を加える。 「でも、おもしろそうだ……そんなストーリーなら、ゆうべの刑事《けいじ》ドラマ、ぼくも見ておけばよかった。それから?」  なんだ、テレビの話か……拍子《ひようし》ぬけした老婆は、すぐ舟を漕《こ》ぎだした。 �それからが、むろん大さわぎよ……学長の犯罪は、ひと目でわかったものの、そこに集まったのは、みんながみんな錚々《そうそう》たる学長派でしょ。学長が大スキャンダルを起こして刑務所に送られたら、ひとりのこらず大学の中で立場を失うわ� 「要するに、きみのパパべったりで出世しようとしていた連中だから、学長のやらかした殺人事件をまのあたりにして、途方《とほう》に暮《く》れちまったらしい」  メンバーの名を軍太から聞かされて、秀介はうなずいた。 「その人たちなら、うちへもよく来る。大坂部長は、あくの強い中年のおっさん。  仙田《せんだ》教授は、奥さん孝行で銀行マンみたいなインテリ顔。  那古屋《なごや》助教授は、ダサい窓際族でさ。  北見《きたみ》って講師は、目先がきくけどときどきやり過ぎて叱《しか》られてる。  京《きよう》の宮《みや》さんは、ブスのくせに自分を美人だと思いこんでるよ」 �うふふ�  志摩子が笑いだした。 �きついこというのね、学長先生の息子《むすこ》は� 「で……結局、学長の犯罪を全員でシカトすることにしたのか」 �そう�  志摩子が答えるより先に、秀介が感想を洩《も》らした。 「赤信号みんなで渡《わた》ればこわくないってつもりなんだよ。なってないなあ、おとなは。えらそうな顔してて、法の正義より自分の保身を優先させるんだもの」 「秀介くん」  と、軍太が目を怒《いか》らせた。 「なってないときみはいうが、そのおかげできみのパパは、殺人の罪に問われずにすんだんだぜ」 「だから悩んでるんじゃないか……」  評論家めいた口調を捨てて、少年の地にもどった秀介は、窓の外を見た。珍《めずら》しく——本当に珍しく、その横顔に淋《さび》しそうな翳《かげ》を見て、軍太はいうべきことばを失った。  そう、淋しいんだろうな彼は。  高すぎるIQをもてあまして、親の前ですら仮面をかぶりつづけなくてはならない少年、おまけにその親が、殺人の大罪を犯しているなんて。  なみのホームドラマの主人公なら、ぐれるか自殺するか、どっちかだろうが、秀介はそのどちらの道をたどる気配もなく、窓外の空に赤らむ西日をみつめていた。 �もう成城学園《せいじようがくえん》だわ。降りるんでしょ� 「うん」  軍太が促《うなが》そうとすると、秀介はくるりとこちらを向いて笑った。 「うちまで送って来てよね。ママは、ぼくよか軍太先生の方を信用してるみたいだし、それに」  少年が視線を泳がせるのを見て、軍太が教えてやった。 「彼女《かのじよ》なら、おれのとなりにいる」  そこで秀介は、正確に、見えない志摩子に目を据《す》えながらいった。 「志摩子さんも、後学のために犯人の棲家《すみか》を、のぞいておくといいよ」     5  東邸は、高級住宅街で知られる成城学園前駅北口にほど近い。  青々と茂《しげ》ったケヤキが、シンボルマークのように庭の一角に立ちはだかっていた。 �学長先生のお宅を見るの、はじめてよ……デラックスなのね�  無邪気《むじやき》に志摩子は感じ入ってみせた。  そんなのんきなこといってていいのか。この家の主人が、きみを殺したんだぞ。  軍太はそういおうとして、やめた。すぐ前を秀介が歩いている。  ものものしいノッカーのとりつけられたドアをあけると、待ちかまえていたように大子夫人があらわれた。 「おそかったんですのね」  非難がましい目でにらまれて、軍太はあてて弁解した。 「たっぷり、勉強ははかどりました」 �わりかし美人�  と、軍太の後ろで、志摩子が夫人を率直に賞讃《しようさん》した。 �こんな奥《おく》さんがいて、なぜ私に迫《せま》ったのかしら�  夫人の手前、軍太が口を閉ざしていると、志摩子はおもしろそうに、 �それだけ私が魅力《みりよく》的ってことなんだな� 「しっ」  秀介のへやへはいろうとした軍太が、思わず叱声《しつせい》をあげたので、夫人がふしぎそうに声をかけた。 「なんですの、先生」 「ゴキブリが廊下《ろうか》の隅《すみ》を這《は》っていたのさ、ママ」  と、また秀介が助け舟を出してくれた。 「まあいやだ」  大仰《おおぎよう》に眉《まゆ》をひそめた夫人は、ゴキブリの埋《う》め合せのつもりか、軍太に愛想よくいった。 「いまお茶をさしあげますわ」 「なんだったら先生、ごはん食べていく?」  水を向けられて、軍太はちょっと考えた。いまからアパートへ帰っても、ディナーはせいぜいカップヌードルだ。そこへいくと東家の夕食は豪華版《ごうかばん》である。  だが、幽霊《ゆうれい》の志摩子はどうする?  口に出して聞くわけにいかないので、彼女《かのじよ》の方をふりむいたとき、玄関《げんかん》の方に人声がした。 「いま帰った」  ——とたん、志摩子の全身がぶるっとふるえた。声のぬしは、東京一郎学長であった。 「お帰りなさい」  夫人がいそいそと玄関へ出ていく。のこされた軍太と秀介は、顔を見合せた。 �私、会いたくない!�  開けはなしになっていたドアから、志摩子が飛び出した。その鼻先に、東学長のダンディな長身があらわれた。犯人を間近にして、彼女の胸に死の恐怖《きようふ》がよみがえったに相違《そうい》ない。 �人殺し!�  面前数センチでふみとどまった志摩子は、ありったけの悪態をたたきつけた。 �色魔《しきま》!  変態!  青ひげ!� 「やあ、いらっしゃい」  志摩子の声が聞えない学長は、いたって平和な微笑《びしよう》を、立ちすくんでいる軍太にむかって投げた。 「少しはものになりそうかね、秀介は」 「はあ、なんとか……」  ごにょごにょいってるあいだも、志摩子は憎悪《ぞうお》の目を光らせて、学長に悪罵《あくば》のオンパレードを浴びせている。 �スケベ!  淫乱《いんらん》!  サディスト!  悪魔  人でなし!� 「そう。それはけっこう……怠《なま》けるようなら、大いに叱《しか》ってやってください」 �それでも教育者なの!  二重人格!  ジキルとハイド!� 「ああ、ママ……ママ」  学長はソフトな声で、夫人に呼びかけた。 「食事が終ったら、私は大学へもどるからね」 「まあ……土曜なのに」 「だから、忙《いそが》しい人たちが顔を合せられるのだよ。内々の会議があるのでね」  東は、おろおろ顔で立ちつくしている軍太に、もう一度笑顔を見せた。 「休日も祭日もない……これはきみ、教育者の宿命なのだよ」 「はあ。ご苦労さまです」  貫禄《かんろく》の差で、つい軍太が頭を下げると、志摩子は、いやが上にもいきりたった。 �こんな吸血鬼《きゆうけつき》に、お辞儀《じぎ》することないわ! 学長、私を見てよ! 短足! 短小! インポ! 私の命を返せ!�  いくらわめいても叫《さけ》んでも怒鳴《どな》っても、なんの効果もないことを思い知らされると、志摩子はとうとう、顔をおおって走りだした。 「あ、待って!」  口走った軍太も、学長を押しのけんばかりにして、玄関《げんかん》へとび出していく。  東夫妻は、呆《あ》っ気《け》にとられた。 「なんだって急に出ていったのかね」 「さあ……あっとか、待ってとかいってたみたいですわね」  自分のへやから顔を出していた秀介が、仕方なさそうに答えた。 「あ、待ってじゃないよ。アマンテっていう喫茶店《きつさてん》の名前だよ……そこでデートの約束《やくそく》があったのを、思い出したんだろ」  第二章 死体預けます     1  志摩子《しまこ》は風のように走る。 「おうい……待ってくれ!」  追う軍太《ぐんた》は、だらしなく息を切らせていた。  脚力《きやくりよく》に自信のある軍太だったが、幽霊《ゆうれい》では相手がわるかった。  東《あずま》家の玄関《げんかん》を出るときに、まず差をつけられてしまった。  なにせ彼女《かのじよ》は、閉ざされたままのドアを苦もなく通りぬけていく。あわてた軍太は、引けば開くドアを、死に物狂《ぐる》いで押《お》し開けようとした。  やっと気がついて表へ出たときには、志摩子の白い姿は、夕闇《ゆうやみ》の中へ溶《と》けこもうとしている。  こうなったら、人の見る目なんてかまってはいられない。軍太は、野良《のら》仕事で鍛《きた》えた声をふりしぼって、 「待てえ、志摩子さあん!」  呼びかけ、追いすがろうとした。  駅前商店街の雑踏《ざつとう》を、彼女は一直線に突《つ》きぬけていく。人ごみをよける必要がないのだから、これは早い。  生身の軍太じゃ、そうはいかない。  よちよち歩きの女の子に、あわやぶつかりかけて、若いママに買ったばかりの大根で尻《しり》をぶたれそうになったり、散歩中の老|紳士《しんし》と鉢合《はちあわ》せしてステッキをふりあげられたり、さんざんだ。 「なんという無作法な」 「だからいまの若いもんは」 「女に逃《に》げられたらしいわよ」 「どこにいるの、その女」 「おかしいわね……見えないわ」 「頭がどうかしてるんじゃない」 「お夏清十郎《なつせいじゆうろう》たい」 「あれは、狂《くる》うのは女の方でしょ」 「近ごろは、男の方がこわれ易いんだって」  ろくなことをいわない弥次馬《やじうま》のあいだをぬって、軍太は駈《か》けた。  駅正面を右に折れ、線路沿いに商店街を突っ切り、左へ曲ると踏切《ふみきり》がある。  ちょうど警笛《けいてき》が鳴り、バーが下りはじめた。  しめたと思ったが、これは軍太の早合点で、志摩子は足をゆるめもせず、バーを通りぬけた。  そこへ電車が、上下同時に走りこんできた。 「わあっ」  一瞬《いつしゆん》、志摩子の体が肉片となって四散したような錯覚《さつかく》にとらわれ、軍太はバーにしがみついた。 「なにをする」 「あぶない」  怒号《どごう》があがり、なん本かの手が軍太の体をつかんだが、かれは茫然《ぼうぜん》として、左右に交錯し流れ去る十両連結の車体に見入るばかりだ。  ……しばらくして、バーが上ったころには、むろん志摩子の影も形もなかった。  踏切を渡る人たちの白い目をよそに、軍太はしょんぼりと、その場に佇《たたず》んでいた。  ふしぎだ………おれはいま、なぜあんな大さわぎをしたんだろう。  軍太は自問自答した。 (幽霊《ゆうれい》の彼女が、轢《ひ》き殺されるなんて、あり得ないのに) (そんなことは、わかっていたのに……それでもおれは、見ちゃいられなかった) (おれ、もしかしたら) (彼女《かのじよ》に) (惚《ほ》れた) (のか?)  よく考えると、——いやよく考えなくっても、こいつはひどく滑稽《こつけい》な恋《こい》だ。  たしかに久米志摩子は、美貌《びぼう》の娘である。器量だけではない、薄手のワンピースごしに披露《ひろう》しているグラマラスな肢体《したい》も、軍太好みだ。商品見本のように、ちょっぴり包装からはみ出た乳房《ちぶさ》は、飛び切りいい形をしていた。軍太の指がアルピニストだったら、「そこに山がある、だから登る」と叫《さけ》んだことだろう。 (いくらすてきでも、彼女は幽霊だぜ!)  服装は地味で、むしろ目立たない方であったが、手首を飾《かざ》るネームプレートつきの銀のブレスレットが愛らしかった……そばにいたときは、気がつきもしなかったのに、いなくなってみると、意外なほどこまかいところまで記憶《きおく》していた。 (おかしなもんだな。死んでも、身につけていた服や装身具《そうしんぐ》は、そのまんまか)  素顔に近い淡《あわ》いお化粧《けしよう》だったが、ゆたかな耳朶《みみたぶ》のピアスが印象にのこっている。 (もうよせ!)  軍太は、警報器の根元で頭をかかえた。 (いくら惚れたって、こまかいとこまでおぼえていたって、さわることさえできない女だ!)  踏切を渡るスポーツカーの助手席から、露出狂《ろしゆつきよう》のような服を着た女の子が、気味わるそうに軍太をのぞき見た。  チン、チン、チン、チン。  警報器がリズミカルな小言をはじめると、車の列がかしこまった。  交互《こうご》にウインクする赤い灯《ひ》が際立つようになったのは、あたりに宵闇《よいやみ》が忍《しの》び寄っているからだろう。 (久米志摩子……)  チン、チン、チン、チン。  軍太は心中でうめいた。 (おれがお前を見たのは、もしかすると、はじめからしまいまで、錯覚《さつかく》だったのかな……)  チン、チン、チン、チン。 (マネキンを抱《だ》いて頭を打って、そのせいで見た幻視《げんし》なのだろうか……ちがう!)  軍太は、むきになって頭を振った。 (おれが、おれの頭の中ででっちあげたまぼろしとしたら……あんなすてきな女の子になるわけがない)  チン、チン、チン、チン。  濃《こ》さをました夜をかきわけ、近づくロマンスカーのヘッドライトがまぶしく目を射た。 (おれが、彼女を見たのは本当だ……たとえもう、二度と彼女《かのじよ》に会えなくっても、信じるぞ!)  目の前を、轟々《ごうごう》と轍《わだち》の音が通過する。  その黒いひびきのむこうから、なにやら白い姿がにじみ出た。それはたちまち、明瞭《めいりよう》な像をむすんで、軍太の前に立った。 �ありがとう、軍太さん�  志摩子がそこにいた。  頭を抱えていた腕《うで》を下ろして、軍太は二、三度首を振《ふ》った。 「志摩子さん……帰ってきてくれたのか」 �声に出さなくていいのよ�  と、彼女がいった。 �私がここにもどったのは、あなたの声が聞えたからなの。私を好きだ……私を見たことを信ずる……そう考えてくれたわね。ことばを使わなくたって、あなたの意志は、十分私に通じたわ。テレパシーは一方通行じゃなかったのよ。ふふ……死ぬと、都合いいこともあるのね�  とうにロマンスカーは去り、踏切《ふみきり》のバーはまたあがっていた。  車の列は、ひとり棒立ちになっている軍太を無視して、あとからあとから、踏切を渡っていった。     2 「おれのアパートは……」  といいかけて、軍太は口をつぐみ、頭の中で考えた。いちいちしゃべる必要は、なかったんだ。 �おれのアパートは、この先の路地をはいるんだけど、おれ腹ぺこなんだ� �じゃあ食べてお行きなさいよ�  と、志摩子が答える。  ここは成城学園から、小田急線の駅で二区間、新宿方向へもどった千歳船橋《ちとせふなばし》のあたりである。戦前は畑の畦道《あぜみち》だったのか、細くて曲りくねった道が網《あみ》の目のようで、タクシー泣かせの迷路地帯だが、幸い軍太はタクシーに縁《えん》がないので、迷うこともない。といいたいが、かれ自身方向|音痴《おんち》だから、やっぱり迷う。 �きみはどうする� �私?�  志摩子は、自分のおなかをさすって考えた。  新米の幽霊《ゆうれい》なので、生活のディテールがよくわからないのだ。 �おなか、へってないわ�  かりにへったとしたら、なにを食べればいいのか悩むところだが、軍太はもちろん、志摩子もあまり物事を深く追求するたちではないらしく、 �ふうん。幽霊は肉体がないんだから、新陳代謝《しんちんたいしや》が不要らしいな。……じゃ、おれ行きつけの店にはいらせてもらうよ� �ええ、どうぞ�  行きつけの店と大きく出たが、内情はツケのきく店、というよりツケがたまっている店なのだろう。  看板に「おふくろの味」と出ている、しもたや風の店らしくない店構えで、店名は『吉四六《きつちよむ》』。大|料亭《りようてい》『吉兆《きつちよう》』と関係があるわけもなく、吉四六というのは九州の民話に登場する智恵者《ちえしや》だ。智恵者といえばこの店の主人の熊本塔吉《くまもととうきち》は、口八丁手八丁、器用|貧乏《びんぼう》が仇《あだ》となって、いまでこそ小ちゃな和風スナックのあるじでしかないが、ゆくゆくは詐欺師《さぎし》として出世しそうな素質があった。 「よ。いらっしゃーい」  建てつけのわるい戸を開けると、塔吉が日本中の愛嬌《あいきよう》をひとり占《じ》めしたような声をしぼる。  もっとも、客の顔を確認したとたん、歓迎《かんげい》のボリュームはガタ落ちになって、 「なんだよ、軍ちゃんか」 「あれ。ママは」  客もいないが、カウンターの中も塔吉ひとりでがらんと淋《さび》しい。 「いないよ」 「病気なの」  平凡を絵に描いたような塔吉に比べて、奥《おく》さんはどこかのモデルをやっていたという噂《うわさ》の、スリムな美人だった。 「いいや」 「国へ帰ったの」 「いいや」 「遊びにお出かけ」 「いいや……別れたんだ」 「へえ!」 「手っ取り早くいや、捨てられたんだな。うん」 「だれが」 「おれが」  と、塔吉はさっぱりしたものだ。 「人間なにごとも経験だぜ。いやあ、勉強になった……おん年三十二|歳《さい》でよ、これで女房《にようぼう》に逃《に》げられたのは三人目。軍ちゃん、注文は納豆《なつとう》定食だろう」 「うん」 「カロリーあたりのお値段は、最低だからな……おれ自分でも、運がいいと思ってる」 「そうかい」 「負け惜《お》しみじゃないよ。やせ我慢《がまん》じゃないよ。そんな、ギワクにみちた目で見ないでくれよ」 「これ生まれつきの目なんだけど」 「あんたはまだ若いからわからんだろうが、女とつきあってなにが一番むつかしいかといや、別れるとき」 「ふうん」 「男は女に飽《あ》きが来ている、女の方には未練がある。泣いてわめいて争って、愁嘆場《しゆうたんば》だけですめばいいが、揚句の果ては庖丁《ほうちよう》を持ち出し、血の雨が降り、これ最低。……へい、納豆定食お待ち!」  しゃべっているあいだも、手は休めない。うす汚《よご》れたスポーツシャツ姿で、安っぽいトレーを突き出した。 「そこへいくとおれなんざ、女が自然に出ていきたくなるムードをかもす。手切れ金をふんだくろうにも、財布の底まですっからかん。あきらめた女は、せめてトルコに行かされない内にと、身の回りのものだけ持って逃げて行く。あとくされがなくって、これ最高。女なんて、そういうつもりでつきあわなきゃあ……おい軍ちゃん。さっきからなにをそわそわ、横目使っているんだよ。おっとと、味噌汁《みそしる》がこぼれるじゃないか」 「う、うん……ちょっと待ってくれ」  当の軍太は、塔吉の文句も上の空だ。  塔吉には見えっこないが、先ほどから志摩子がおかんむりなのである。 �なにが最高よ。軍太さん、おかしな人とつきあってるのね。もう出ましょう� 「待ってくれ、今すぐ」  またぞろ、走らされてはたまらない。軍太は大あわてで、納豆をつめこみ味噌汁をすすった。納豆定食でよかった、これが明太子《めんたいこ》定食だったら、涙がとまらなくなる。  塔吉は、目を丸くした。 「待てといって……もうおれ、なんにもいってやしねえぞ」  返答をする時間が惜しい。第一、どう答えたらいいのか、本人にもわからないので、軍太は、目を白黒させながら定食をのこらず平らげた。 「ゲーっぷ……ゴッつおさん」  出ようとすると、志摩子が注意した。 �軍太さん、お勘定《かんじよう》� �勘定たって……こんどバイト代貰《もら》うまでツケなんだ� �いや! こんな人の店に、軍太さんが借金してるなんて、私いや! いますぐ、あるだけ払ってよ�  志摩子の権幕におそれをなして、軍太はしぶしぶ財布をとりだした。 (やれやれ……それほどいうなら、金貸してくれりゃいいのに) �仕方ないでしょう。私のお金を、生きてるあなたに渡《わた》すことは、できないんだから� (いけねえ、筒抜《つつぬ》けだ)  テレパシーというやつ、便利なときもあるが不便なときもある。  しわくちゃの五百円|札《さつ》を目の前にして、塔吉は、にせ札を見せられたような顔になった。 「軍ちゃん、あんた勘定《かんじよう》払う気」  かりにも商人として発するべきことばではないが、塔吉も、聞かされた軍太も、気がつかない。  もうひとつ気がつかなかったのは、それまで神棚《かみだな》の下で寝そべっていた、『吉四六』の飼《か》い犬が、のっそりと起きあがったことだ。 「払うよ」 「いつだっていいのに」 「そうはいかない」  と、軍太は苦笑を浮べた。 「彼女に叱《しか》られちまった」 �いやあ、軍太さん�  ふいに志摩子が悲鳴をあげた。  中型の赤犬だが、食いもの屋のペットだけあって鼻の利《き》きそうな代物が、志摩子のまわりを、胡散臭《うさんくさ》げに歩き回っている。 「しっ、しっ。こら吉四六」  あわてた軍太は、店名を名乗る赤犬を追い払おうとして——首をかしげている塔吉の様子に、いっそうあわてた。 「あの、おつりの百五十円はさ……たまってるツケの方へ回しといてよ」  軍太がセコい念を押しているあいだに、志摩子はいち早く、店の表へ姿を消した。まるで目に見えているように、赤犬が忠実にそのあとを追いかけ、戸にむかってワンと吠《ほ》えた。  その戸を忙《いそが》しくひき開けて、出ていく軍太を見送った塔吉は、ものいいたげに主人を見上げる赤犬と、目を合せた。 「彼女だって……そんなの、どこにいた? おい吉四六。まさかお前に見えたというんじゃあるまいな」     3  路地を折れると、さらに狭《せま》い横丁があった。  つづけざまに二度曲ったので、アパートは表通りの真裏にあたる。  不動産屋の広告風にいえば、「閑静緑多」だ。年季のはいった木造二階家のむこうに、竹林らしい黒い影《かげ》が見えた。 「車がはいらないから、安いんだよ」  説明しながら、これだけは真新しい鉄の階段を踏《ふ》んで、じかに二階へ登っていく。もっとも典型的な、外廊下型のアパート建築である。  いくら注意しても、階段はがたがたぎしぎしと鳴り物入りで軍太を迎《むか》えたが、あとに従う志摩子は、そよとも音をさせない。さすがに幽霊《ゆうれい》である。 「どうぞ」  鍵《かぎ》を鳴らしてドアを開けたときには、志摩子はもう、六畳ひと間の軍太のへやへはいりこんでいた。  畳のまん中に立ったまま、 �臭《くさ》いわ……これが、男の匂《にお》いっていうものなの�  とたずねる。  軍太はあわてた。 �その……押入《おしいれ》に洗濯《せんたく》物が丸めてあるし、流しには�  四尺五寸|幅《はば》でも炊事《すいじ》設備がととのっているのは大したものだが、洗い桶《おけ》から半身突き出している、とんかつソースで縞《しま》模様にデザインされた皿《さら》を見て、志摩子が顔をしかめた。  どうもこのへやには、匂いの震源地が多すぎるようだ。流しの足元で埃《ほこり》をかぶっているゴキブリホイホイの中にも、ミイラと化した虫が、なん匹《びき》か保存してあるにちがいない。 �いますぐ、掃除《そうじ》するからね� �ええ……お手伝いできなくて、ごめんなさい�  掃除なんかしなくていいとはいってくれなかったので、それからの十五分、軍太はこまねずみのように働いた。もっとも掃除に関する所要時間が十五分では、どこまできれいになったかあやしいものだが、軍太にしてみれば、久しぶりにさっぱりした気持で、へやの隅《すみ》っこであくびしていた座布団《ざぶとん》を、こたつテーブル兼用の座卓《ざたく》の前にならべた。 �さあ、ここへ坐って� �ありがとう�  志摩子は、おずおずと正座した。はずみに、また服の破れめが垂れ下る。  軍太はいそいで顔をそむけた。 �軍太さん、やさしいのね�  胸をかくしながら、そっと志摩子がいう。白状すると、軍太のそらした目は、柱にかかっていた短冊《たんざく》型の鏡にそそがれていて、そこに彼女を映そうと考えていたのだから、少々良心が痛む。 「なあに、……」  口で答えようとして、テレパシーでいい直した。 �そうでもないさ� �かまわないわ……軍太さんになら見られても� �え� �本当よ�  志摩子の声に、はじらいがある。それにしては破れめを押《おさ》えた手を下ろさないのは、言行|不一致《ふいつち》のきわみだが、軍太の方にも盗《ぬす》み見ようとしたひけめがあるから、たったそれだけの彼女のことばで、十分有頂天になった。 �だって私……頼《たよ》りにできるのは、軍太さんだけですもの� �志摩子さん�  軍太は、ふたりのあいだをさえぎる座卓を押しのけた。 �おれ……きみが好きだ� �ありがとう� �きみが� 「好きだ!」  と、軍太はあえてことばにした。こうした決定的言辞は、口に出して、自分の耳で確認しないと不安なものである。 �おれ、きみのためなら、なんだってする。いってくれ�  冷静に考えると、死んだ志摩子のためにできることは、お墓を建てるくらいのものだろうが、いくら想像力に乏《とぼ》しい軍太だって、そんなミもフタもないことは、この際考えない。 �私……�  志摩子は、しばし絶句した。 �くやしいの� �わかるよ� �学長先生をはじめ、私の体を切り刻んだ人たちが、世間からは偉《えら》い教育者として通用するなんて……あの秀介くんにはわるいけど……それを考えると、体がねじれるほどくやしい!� �当然だ�  軍太はうなずいた。 �つまりきみは、復讐《ふくしゆう》してほしいんだね� �復讐……そうよ� �いいとも�  軍太はうけあった。  あまり安うけあいするので、志摩子の方がびっくりしたほどだ。  彼女にまじまじとみつめられて、軍太はちょっと照れたように笑った。 �なぜかっていうとね。あいつらの正体を教えられて、めちゃくちゃに腹を立ててるんだ……おれ、頭がわるいくせに、東西大学医学部をめざして、もう三浪してる。話したっけ� �聞いたわ� �きみのように現役で合格した優秀な人から見たら、なんて馬鹿《ばか》な受験をする……そう思うだろうな。いいんだ�  軍太は、手で制した。 �おれが東西大学に、しつこくアタックしてるのはね……おやじの遺言なんだ�  志摩子の目が、丸くなった。 �うちのおやじは、早池峰《はやちね》山の麓《ふもと》で医者をやっていた……早池峰山。知ってるかい?�  志摩子は首をふった。 �知らないだろうな……盛岡《もりおか》のずっと東なんだ。東北本線と三陸《さんりく》海岸をへだてる北上《きたかみ》山系、その主峰《しゆほう》でね� �…………�  志摩子はぽかんとしている。 �きみは、どこの生まれ� �私は東京よ。父が外交官だから、家族はのこらずスイスに住んでいるけど� �スイスか……それじゃあ三陸だの北上だのといっても、縁《えん》が遠いだろうな……�  ちょっと目を閉じて、軍太は考えた。 �そうだ。スイスを知っているんなら、エーデルワイスもわかるね� �ええ、もちろん。アルプスの星ってニックネームのある高山植物だわ� �そう……そのエーデルワイスそっくりの花をつけるハヤチネウスユキソウが、早池峰山の特産なんだ�  女性は花に弱いのか、てきめんに志摩子が目をかがやかせた。 �きっと、きれいな山なんでしょうね� �きれいだよ……だが、そこに住む人にとっては、恨《うら》めしくもあった北上の山々なんだ�  ふたたび軍太は、目をつむった。 「過疎《かそ》」ということばが、頭の中で明滅《めいめつ》した。  北上山地を横断する鉄道に山田《やまだ》線がある。盛岡から東進して宮古《みやこ》にいたるローカル線だが、建設計画が議会に提案されたとき、野党の議員が、 「人の住まぬ所に鉄道を敷《し》いて、猿《さる》でも乗せる気か」  と質問したという話を、軍太は、父からしばしば聞かされた。  晩《おそ》い春がおわり、やがて——  高原を渡《わた》る風は快い。東京では絶対に味わうことのできない清爽《せいそう》さだ。  だが、地上に這《は》い出た蝉《せみ》のいのちがみじかいように、北上山地の理想の季節もみじかい。  風に舞《ま》う枯葉とともに、秋が駈《か》けぬけると、もうそこに白い装束《しようぞく》をまとった冬が、押《お》し寄せてくる。  鉛《なまり》色の空から、来る日も来る日もまき散らされる、雪。  雪、  雪、  雪。  山も林も、斜面《しやめん》にしがみついた乏《とぼ》しい耕地も、ことごとく白一色に葬《ほうむ》り去られる。  空をどよもす寒風の下、それでも人は生きていかねばならないのだ。傷つき、病めば、だれもが必死に医師の戸をたたく。 �おれのおやじは、そんな僻地《へきち》の医者のひとりだった……広い村に、医者と名のつく者はおやじだけ……  となり村に、といっても雪のない季節だって車で二時間あまりかかる場所だが、診療所《しんりようじよ》が新設され、使命感に燃えた若い医者が町から来ると聞いて、おやじは泣いてよろこんだ……  なんといっても、わしの技術は古い。  そうおやじは、こぼしてた。  そのために、助かる者も助からなくなる。若い先生には、わしからも教えを乞《こ》おう……村と村で共同戦線を張って、互いに手を貸し合うんだ。  だが、おやじの期待した若先生は、半年ともたずに、町へ引き揚げた。できたばかりの診療所はもぬけの殻《から》になった。  温厚なおやじが、その晩ばかりは深酒をした……  明け方近く、となり村から電話がはいった。  急患《きゆうかん》だ、来てほしい。  ことわればよかったんだ、おやじは。  縄張《なわば》り外の世話をやくことはなかった………それなのに、おやじは出かけた、ふらつく足を踏《ふ》みしめて。  おれ、寝呆《ねぼ》け眼《まなこ》をこすって、おやじを見送った。十二月も暮《く》れに近かった……山肌《やまはだ》の白いものは、もう根雪になっていた。  おやじの手当てを受けて、急患は命をとりとめたが、帰り道心臓の発作を起こしたおやじは、雪ん中でつめたくなった……� �でも……さっきあなたは、遺言といったね� �おやじは、前々から死を覚悟していたらしい……遺品の中から、おれ宛《あ》ての手紙が出てきた。まだおれは、中学生だった……  自分のあとを継《つ》いで、医師になってほしい。  そのためには、最新の医療《いりよう》技術を身につけること……  おやじと、東学長は、大学で先輩《せんぱい》後輩の間柄《あいだがら》だった。だから、東西大学については、田舎《いなか》にいてもくわしかった。  あの大学なら、信用できる。  おやじはそう断言した。  無器用なお前が、あちこち気を散らすのは、得策といえない……東西大学医学部一本にしぼって、入学を果たせ。  それがおやじの手紙の内容だった� �そのためにあなた、三浪したの!�  志摩子は呆《あき》れ顔だ。 �馬鹿《ばか》正直ねえ……たしかに東西大学医学部のレベルは高いし、いい先生を集めてるけど、その一方では裏口入学をみとめているから、まともにはいろうとすれば、年々門が狭《せま》くなっていくのよ� �ほかにするなんて、考えてもいなかった……一度や二度落ちたからって、そんな意志薄弱では、国へ帰って医者をつづけることもできないだろう……� �学長が私を殺したと聞いても……また来年、受験するつもり?� 「いや」  軍太は、声に出して唸《うな》った。 �もう、やめた……おれは、人を助けるのが、医者だと思っていた……人殺しをする医者なんて、医者じゃないからな……畜生《ちくしよう》�  軍太の茫洋《ぼうよう》と角張《かくば》った顔に、はじめて激烈《げきれつ》な怒《いか》りの血がのぼった。 �そんなあいつが、医者会の会長になるんだって。ふざけるな�  それから軍太は、志摩子を見て、にこりとした。 「だからおれは、きみに頼《たの》まれなくても、学長たちに復讐《ふくしゆう》してやる!」 「そんなこと、大声でいわない方がいいと思うよ」 「えっ」  ドアのノブが回って、秀介《しゆうすけ》がはいってきた。 「いうのなら、せめてドアにロックすべきだな」 「秀介……」  軍太は、目をぱちぱちさせた。 「うちをぬけだしてきたのか!」 「宿題でどうしても質問したいことがあるといってね。……志摩子さん、そこにいるの?」  秀介の目が、無人の座布団にそそがれた。 「そうだ」 「いま復讐とかなんとか、ぶっそうな話をしていたね。パパに仕返しするんだろ」 「…………」  軍太と志摩子は、顔を見合せた。いくら秀介がクールな少年でも、即答《そくとう》しにくい問題である。 「パパが大学へ行ったあと、こっそり机の抽斗《ひきだし》をかき回したんだ……この写真、志摩子さんでしょう」  ジーパンにはきかえていた秀介は、お尻《しり》のポケットから、小ぶりなカラー写真をひっぱりだした。  どこかのパーティ会場らしい。中央ですましている東京一郎《あずまきよういちろう》の左右に、美貌《びぼう》とドレスを競うように、数人の女子学生が押しあいへしあいしている。東の左肱《ひだりひじ》にぶら下らんばかりな少女が、久米志摩子だった。 �これよ、私よ� 「これがたしかに志摩子さんだ」  と、軍太が右から左へ逐語訳《ちくごやく》した。 「やっぱりね」  秀介が写真の裏を返すと、「しまこ」と、走り書きしてある。 「パパの字なんだ……このとき以来、パパはあなたを見初《みそ》めたらしいや」  あまり中学生にふさわしいせりふではない。 「おかげでぼくも、あなたの顔を見ることができた。きれいな人ですね」 �ほめられて感謝すべきなのかしら� 「ありがとうと、いおうかいうまいか、彼女は迷っているよ」 「そりゃあね……ぼくはあなたを殺した憎《にく》むべき男の相続人ですから。しかし、あなたたちのいう復讐《ふくしゆう》を急がないでほしいんです」  秀介が真顔になった。 「情でパパを庇《かば》おうというんじゃないよ……悪事の報いは、受けて然《しか》るべきなんだ。問題は、どんな形で復讐しようとするのか」 「その結論は、まだ出ていない」  軍太が説明した。 「まさか、パパを志摩子さんみたいに扼殺《やくさつ》しようというんじゃないよね……いくら殺してやりたくても、幽霊の志摩子さんには、現実の人間や物体に力を及ぼすことができない。となると、パパを殺す役目は軍太先生になる。ぼく、先生を人殺しなんかにしたくない」 �私だって�  志摩子が同意した。 「彼女も、きみとおなじ意見だ」 「でしょう? するとのこされた復讐の方法は、犯行の暴露《ばくろ》だよ」 「なるほど」 「だが、幽霊の証言では、志摩子さんは腹を立てるだろうけれど、現行の日本の法律によるかぎり、信憑性《しんぴようせい》がない」 「うむ」  年かさの軍太が相槌《あいづち》をうつだけというのは頼《たよ》りないが、IQでも、ミステリーの知識でも、はるかにかれを凌駕《りようが》する秀介だから、やむを得なかった。 「物的|証拠《しようこ》を揃《そろ》えなくては、軍太先生に勝ち目はないんだ。その証拠として、もっとも雄弁《ゆうべん》なのは、この場合、志摩子さんの死体だよ」 「そ、それそれ」 「そこで志摩子さんにたずねてほしいんだけど……死体は、だれが、どこへかくしたのか?」 �それを、話そうと思っていたのよ!�  と、志摩子が乗りだした。 「志摩子さんが、教えてくれるってさ」 「よかった………謹聴《きんちよう》」  秀介が居ずまいを正す。 �学長の殺人を、全員でかくすことに決めたところまで、話したわね……解体の時間を少しでもちぢめるため、みんなで手分けして私をばらばらにしたわ� 「まずみんなが、寄ってたかって志摩子さんを切断した」 「いくつに?」 �首でしょ。胸から腰《こし》回りでしょ。上肢《じようし》と下肢、それぞれ二本で一組� 「首に胴《どう》に、手二本、足二本のセットで、都合四組」 �厳重に包装《ほうそう》して、防腐《ぼうふ》処理すませ、血が洩《も》れないようにして、さてどう捨てるか——という段になって、京の宮さんが提案したのよ。 『私たちは、今日思いがけないことで、共犯関係を結びました。ついては、この中のだれかひとりでも、裏切り者が出たらおしまいです。約束《やくそく》をさらに堅いものにするため………』  めいめいが死体|遺棄《いき》の罪をかぶればいいんだって� �めいめいが� �ええ……大坂《おおさか》部長が首。仙田《せんだ》教授が両手。那古屋《なごや》助教授が胴。北見講師が両足�  各自の担当部分を秀介に説明しながら、軍太はまたたずねた。 �それで………かくした場所は�  秀介もことばを添《そ》えた。 「首なら一番だけど、手や足だってかまわない……最新の法医学が、きっとあなただってことを証明してくれるよ」 �残念だけれど、わからないわ� 「わからない? ひとりもかい」 �だって、私……首だけにされた自分を見て、気絶してしまったから� 「気絶した? きみが」  幽霊《ゆうれい》が気を失うなんて、聞いたことがないが、肉体がなくなっても精神のみ残存しているから、幽霊である。精神があれば、気絶することはできる。 「少なくとも、盲腸炎《もうちようえん》や水虫になるよりは可能だね」  妙なたとえをもちだして、秀介はひとりでのみこんだ。 �むろんまだそのときは、私……自分が幽霊になったなんて、思いもつかなかった。学長に首をしめられて、もがいてもがいている内に、ふーっと意識が底なしの泥沼《どろぬま》みたいなところへ沈んでいったの。  果てしなくどこまでも落ちていく、夢《ゆめ》の中みたいな、こわいけれどちょっぴり甘《あま》ったるい感覚のトンネルが、えんえんとつづいたと思うと、だしぬけに、ぽんと明るい場所へ飛び出したの。  ……なんだかひどく自分が軽くなったような気分だったわ。  よく見ると、そこは解剖《かいぼう》室じゃない。台の上に載《の》っているのは、私じゃない!  おまけに、見覚えのある先生たちが、よってたかって、私の体にメスを入れている!  私もう、なにがなんだかわからなくなって、狂《くる》ったように叫《さけ》んで回ったわ。 『やめて!』 『やめてください!』 『痛あい……苦しい!』  本当は私、死んでるんだから、痛くも痒《かゆ》くもないはずだったのにね。  いくら泣きわめいても、私の存在に気がつく人は、ひとりもいなかった。  目の前で、私の右手が切断され、左手がちょん切られ、大腿骨《だいたいこつ》がゴリゴリと鋸《のこぎり》で挽《ひ》き切られて、私の、この久米志摩子の……二十年のあいだ鏡ごしにおつきあいしてきた体が、見る影もなくバラバラにされおわったとき……  また私の意識は、トンネルの中へはいってしまったの。  我にかえったときは、解剖室にはだれもいない……ふらふらと表へ出たとき、はじめて気がついたわ。ドアを開けずに、外へぬけ出した私。  恐怖《きようふ》にかられて、絶叫《ぜつきよう》したの。 『いやーっ! こんなの、私じゃない! 私、幽霊《ゆうれい》なんかになりたくない! 人間のままでいたい!』  まわりにいっぱい、看護婦さんがいた。患者《かんじや》がいた。クラスメートだっていた。ただのひとりも、私の悲鳴に気がつく人はいなかった……�  志摩子の長いモノローグを、軍太を介して聞いた秀介は、困ったようにいった。 「気持ちはわかるけど、肝心《かんじん》かなめのところで目を回すなんて。せめてひとりくらい、死体|隠匿《いんとく》の現場を目撃《もくげき》しておいてほしかった」 �役に立たなくて、申し訳ないわ� 「志摩子さん、しきりにあやまっているぞ」  すると秀介は、あっさり首をふった。 「なあに。そんなこともあろうと思ったから、いそいで今夜のうちにかけつけたのさ……軍太先生からも、彼女に頼《たの》んでよ」 「頼む?」 「そう! パパがいってた大学の会議だ。あやしいと思わないか……いまの四人の死体|遺棄《いき》に関する報告会だよ、きっと」 「あっ」  軍太が手を打てば、志摩子も気負いこんだ。 �時間といい場所といい、ぴったりね!� 「たしかにそうだ……きみが殺されたのがゆうべおそく。それからほぼ一日たって、四人が四か所へ、きみの死体を始末した……犯人グループのリーダーとしては、結果を聞きたくなるのが当然だ」 「幸い志摩子さんは、軍太先生以外のだれにも見えない。それでいて、志摩子さんの方からは人の姿を見、声を聞くことができる。情報収集には絶対便利だよ!」 �わかったわ�  志摩子がいい、 「了解《りようかい》、だそうだ」  手みじかに軍太が伝えた。 �いますぐ出かけましょう� 「その前に……ぼくも幽霊《ゆうれい》さんにおつきあいするの、はじめてだからね。どんな力があるのか、たしかめておきたいんだ」 「力というと」 「つまりさ。ふつう幽霊ってのは、すうっと消えたり出たりできるだろ。ESP風にいえば、テレポーテイションなのかな」 「なんだい、そのイー・エス・ピーってのは」 「超《ちよう》感覚的知覚、と訳せばいいんだけど……よく小説やマンガに出てくるだろう」 「受験勉強に忙《いそが》しくて、あまり読んでないんだ」 「常識のない人は、つきあいにくいよ。デューク大学の超心理学研究所所長、ライン博士がつくったことばなんだ。テレパシーや透視《とうし》、テレキネシス、さらにファンタスティックな現象としてテレポーテイションをふくむ超能力を駆使《くし》するのが、ESPER、エスパーというわけさ」 「ええと、その……」  軍太はまごつきながら、 「テレパシーあたりまでは、なんとかわかるんだが、テレキネシスというやつが」 「念力とか念動とか呼ばれる能力だよ。手にふれることなく物体を動かすことができるんだ」 「まるで手品だな」 「ショー化された念力の大部分はね。ユリ・ゲラーのスプーン曲げが、手品か本物かは議論が分れるだろうが、なかには厳密な実験に耐《た》える念動現象もある。  このテレキネシスと幽霊が結びついたポルターガイストについては、非常に多くの例があって、一概《いちがい》にすべてをインチキとはきめつけられないよ」 「ポルターガイストだって」 「騒霊《そうれい》現象のことさ。幽霊|屋敷《やしき》の中で、皿《さら》やナイフが飛び回ったり、テーブルが持ちあがったりする話……聞いたことない?」 「手品のつぎは魔法《まほう》かい」  げんなりしたように、軍太がいう。  志摩子も途方《とほう》に暮《く》れたらしく、 �そんなこといわれても……私、まだ幽霊になってから、まる一日たっていないのよ。どういう能力があるのかわからないわ� 「自分にも見当がつかないといっている」  軍太に通訳されて、秀介は声をはげました。 「ではそれを身につけるんだ。テレポーテイション、一瞬《いつしゆん》の内に遠|距離《きより》を往復する力が備われば、行動半径は無限に拡《ひろ》がるし、テレキネシスが可能になれば、あなたひとりで十分パパたちをおどかすことができる……まずやってみてよ」 �やってみるって……軍太さん、どうしよう�  どうしようといわれても、軍太だって幽霊《ゆうれい》になったことがないから、返事ができない。 「なんでもいいから、行きたいとこ……この場合東西大学の中庭を心に思い浮べて、そこへ行こうと精神を集中するのさ」  と、秀介はいっぱしのエスパーみたいな御託《ごたく》をならべた。 「さあ、がんばって。その気になって!」 �え……ええ……�  志摩子はおろおろした。 �精神を集中するのね� 「志摩子さん。ほらこういう風に」  軍太があやしげなポーズで、両手で印《いん》をむすんでみせたから、秀介はふきだした。 「忍者《にんじや》の真似《まね》かい」  それでも志摩子は、素直に目をつむり、口の中で唱えはじめた。 �東西大学中庭へ………  東西大学中庭へ………  東西大学中庭へ………�  はっと、軍太が目をこすった。  志摩子の姿がうすれていく。 �東西大学中………  東西大………  東………�  彼女の唱える声も、みるみる内に遠くなり——二、三度まばたきする内に、いまや志摩子の幽霊は、完全に姿を消していた。 「消えた」  軍太が呻《うめ》いた。 「本当に?」  軍太に詳細《しようさい》を聞かされて、秀介がおどりあがった。 「やったぞ、志摩子さん!」     4 「よしよし、よく吠《ほ》えずに我慢《がまん》したな、吉四六や」  抱《だ》いた赤犬に頬《ほお》ずりしながら、アパートの二階から降りてきたのは、熊本塔吉だ。 「おかげでいろんなことがわかったぞ……幽霊がたしかにいたのも驚きだが、その幽霊をこさえたのが、大学のえらいさんとはなあ」  横丁の禿《は》げちょろけた舗道《ほどう》におろされた吉四六は、とことこ先に立って歩きだした。尻尾《しつぽ》が巻いているところを見ると、名は九州民話の主人公でも、秋田犬の血がまじっているようだ。  そのペットのお尻《しり》にむかって、ぶつぶつひとりごとをつづけている塔吉は、つい今し方まで、軍太と秀介の会話を立ち聞いていたのだ。 「軍ちゃんの様子がおかしいし、店はひまだし……で、のこのこ来てみたら意外な収穫《しゆうかく》だったぜ、こりゃあ」  ひとりでに、顔のひもがほどけてくる。 「証拠《しようこ》はなくても、むこうさまは脛傷《すねきず》だ……ゆさぶりようによっては、きっと出すぞ、金を……気をつけろ!」  威勢《いせい》よく怒鳴《どな》ったのは、アベックを乗せたオープンカーが、塔吉の体を掠《かす》めて走り去ったからだ。 「どれくらい出すかな。せめていまくらいの車が買えるほど……は無理にしても、レンタで借りられるほど」  胸算用してから、自分でもみみっちいと思ったのか、ぶるるると二、三度首を横に振《ふ》って——横にしたままの位置で、その動作がストップした。 「あれえ」  たしかさっき、出かけるとき消しておいた「吉四六」の看板の灯《ひ》が点《つ》いている。  足早に店の前へ近づいて、鍵束《かぎたば》の音をさせていると、やにわに戸が中から開いて、白い腕《うで》がのびた。 「わっ」  ひきずりこまれて、塔吉は目をぱちくりさせた。 「なんだ……ジュン子か」 「なんだとはなんだ」  素肌《すはだ》にTシャツ、ジーンズのホットパンツという、町を歩くには最小限の衣装《いしよう》で、カウンターの椅子《いす》にお尻《しり》をのせた少女が、足をばたばたさせた。  これでもう少し上背があって、表情にしまりがあれば、CMモデルに売りこめるのだが——と、塔吉がときたま残念に思うことのある、近所のコンビニエンスストアにつとめる女の子だ。 「合鍵《あいかぎ》くれたのはお前じゃねえか」 「そうだっけ」 「とろいこといわないでくれよ。女房《にようぼう》に逃げられて淋《さび》しい、いつでも来てほしいって、泣き落とししやがって」  このことば遣《づか》いで、店番をやっているというのだから、客もおどろくにちがいない。 「それが熊さんの手だって、ドーナツ屋の坊やが教えてくれたけどさあ。店をクビになったから、のぞきに来てやったんだ」 「なんだ。もうやめさせられたのか」 「おやじがいい年こいて、私のケツにさわるから、いくら呉《く》れるっていったんだ。そしたら、バイト代にはいってるというじゃんかよお。あッたまきて、 『奥さーん。ご主人が仕事の邪魔《じやま》するんでーす』  そいでもって、三十秒後にはご夫婦大立ち回りになっちゃった。仕様がないから、今日までのバイト代、レジからつかみ出して自主的にクビになってやったんだ。……文句ある?」  下からのぞきこんだジュン子に、塔吉が素早く唇《くちびる》を寄せると、足元で吉四六がわんと吠《ほ》えた。 「臭《くせ》えな」  ジュン子が顔をしかめる。 「ひまだから、仕込んだレバーがいたみそうなんだ」 「はん、それでレバニラ炒《いた》めをごっそりつくって食べたのか」  椅子《いす》を半回転させて、店の中を見回したジュン子は、こんどは肩《かた》をすくめた。 「テーブルに蜘蛛《くも》の巣《す》が張ってるみたいだ。見通し暗いね……どうせ、借りてる店なんだろ」 「借りてることはたしかだが、店賃《たなちん》を払《はら》っていないこともたしかだ」  と、塔吉が答えた。 「おれの財布だって、蜘蛛の巣が張ってる」 「見通しも暗いが、あんた根が暗いよ……女ならだれでも逃《に》げるよ。タバコ、ないの」 「あるもんか」 「じゃあ、自分のを吸おう」  ぷうと煙をふかしたジュン子は、あらかた興味を失った顔で、念を押《お》した。 「いっとくけど、私も女なんだ」 「本人がいうなら、たしかだろう」  手をのばした塔吉は、ジュン子の胸をわしづかみにした。 「シャツが破れる」  少女は、相手の手を払いのけた。 「只乗《ただの》りはごめんだもん」  椅子からすべり降りたジュン子の前に、塔吉が立ちはだかった。 「お前は運がいい」 「なんのこと」 「たった今、儲《もう》けの糸口をつかんだところだからな」 「あんたがつかんだのは、私のオッパイじゃないか」  歩きだそうとした彼女を押しかえして、塔吉は、自信たっぷりだ。 「出ていくのは、おれの話を聞いてからにしろ。さもないと、後悔《こうかい》する」 「とっくに後悔してるよ」  といいながら、ジュン子は塔吉を見返した。 「まあ、聞くくらいなら、ね」 「よし。上へ行こう」  戸締《とじ》まりをしながら、塔吉が背中でいった。 「ふうん……あんたこの上に住んでるの。屋根裏かい」 「ばかいえ。ちゃんと畳《たたみ》も布団《ふとん》も敷《し》いてあらあ」 「聞くだけだよ。寝《ね》るなんて、いっちゃいないよ」  数分後、ふたりの体は布団の上でもつれあっていた。 「だから女はうそつきてんだ。男ほしさに来たことは、はじめからわかってるんだぞ」 「るせえな、男のくせに。口ばっかりでなんにもやらない奴《やつ》とちがって、私は不言実行のタイプなんだ」  それからジュン子は、塔吉の耳にささやいた。 「ねえ。さっきの話……ひと口乗ってやるよ」     5  いくら塔吉が若くて、女に飢《う》えていて、その結果クライマックスが早すぎたとしても、セックスの合間に幽霊《ゆうれい》やら東西大学の恥部《ちぶ》やらの話をしたのだから、この間なん分かなん十分か経過している。  それに対してテレポーテイションは、瞬間移動が原則なので、志摩子のその後を追うには、時間を少々さかのぼらねばならない。  そういうわけで——いま、志摩子は東西大学の前庭に、音もなく降り立っていた。 �べんりィ!�  しばらくは自分でもぽかんとしている。およそ物理の法則を無視した移動だが、もともと魂——といってはかび臭《くさ》ければ、精神エネルギーの波動でしかないいまの志摩子が、物理学に支配されるはずはなかったのだ。 �ああ………せめて生きてるあいだに、この手が使えたら、国鉄や私鉄の運賃値上げに対抗できたのに�  幽霊にしては、ひどくセコいことを考えたが、新米だから幽霊の自覚に乏《とぼ》しいのは、無理もない。  到着《とうちやく》直後は、陽炎《かげろう》みたいにゆらめいて見えた周囲の情景が、みるみるピシッと焦点《しようてん》をむすぶ。  見おぼえのあるクチナシの花が、夜目にも白く盃《さかずき》型に咲いている。月が雲にかくれて雨模様のせいか、花の香気がひときわ強く、志摩子を刺戟《しげき》した。  触覚《しよつかく》と味覚《みかく》は封《ふう》じられても、視覚|聴覚嗅覚《ちようかくきゆうかく》は生前のままなのだろうか。まだ志摩子には、わからないことがいっぱいある。  だいたい、だれもが死んだあと幽霊《ゆうれい》になって、魂魄《こんぱく》この世にとどまるとすれば、ピテカントロプス以来の死者の亡霊で、地球の大気|圏《けん》は、中央線のラッシュ以上のさわぎを呈《てい》しているだろう。  だが、志摩子はまだひとりとして仲間に会ったことがない。  してみると死者はみんながみんな幽霊になれるのではないらしい。一定の資格、一定の条件の下で、幽霊となって「うらめしや」を演ずることができるとみえる。 �幽霊界にも共通一次があるのかしらん。お岩さんて、エリートなんだわ……�  アホなことを考えたのは、テレポーテイション直後のことで、精神が一種の酩酊《めいてい》状態にあるためだ。  ゆっくりと志摩子は、移動を開始した。  中庭へはいると、学長室のとなりのへやに、灯《ひ》が点《とも》っているのが見える。応接室である。 �あそこだわ�  壁《かべ》をぬける代りに、志摩子は思念を集中した。  もう一度、テレポーテイションをこころみようというのだ。 �応接室の中へ……  応接室の�  慣れたせいか、こんどの移動は迅速《じんそく》だった。  あっと思ったときには、彼女はもう、応接室の中で東学長の膝《ひざ》に乗っかっていた。 �きゃあ�  彼女の発したかわいい悲鳴は、むろんだれの耳にも届かない。  総革張りのアームチェアとソファには、学長をはじめとする、共犯者のお歴々が坐っていた。 「学長先生、どうぞこれを……」  と、秘書の京の宮都《みやこ》が、なにやらびっしり書きつらねてある書類を、東京一郎の前でひろげた。 「みなさん署名|捺印《なついん》ずみでいらっしゃいますわ」 「うむ」  東は、もっともらしく志摩子のむきだしになった乳房《ちぶさ》を見た。というのは彼女の主観に於《おい》てであって、実際には東の視線は幽霊《ゆうれい》を通過して書類に注がれていたのだが、あわてて志摩子は飛びのいた。 「みなさんおなじ契約《けいやく》書を、控《ひか》えとしてお持ちになっておいでです」 「うむ」 「この通り、収入印紙も貼《は》ってございます」  なんの契約かと、のぞきこんだ志摩子は呆《あき》れた。 �この契約成立後三か月以内に、東京一郎は東西大学学長職を辞任……以後同職を、大坂|吾朗《ごろう》医学部長に譲《ゆず》るべく、誠心誠意その方向にて教授会をとりまとめること……また大坂吾朗は、学長職につくやただちに仙田教授を医学部長に推薦《すいせん》して……�  あとは読まなくても、わかっている。 �以下右に準ずだわ�  道理で、このうるさ方どもが、いくら東京一郎直系といはいえ、唯々諾々《いいだくだく》として共犯者になったわけだ。 �東学長先生、こんなエサをばらまいたのね! ボスが去って、だれもが一段階ずつ出世する……八方めでたしだわ、殺された私を除いて!� 「この場で私は、あらためてお約束《やくそく》する……」  東学長が、ひくいがよく通る声で口を切った。 「万一にも私が約束に違背《いはい》したようなときは、遠慮《えんりよ》なく私を訴《うつた》えて下すってけっこう」 「できないと、高をくくっておっしゃっとるのでは、ありますまいな?」  大坂部長が、がらがら声で釘《くぎ》を刺した。肥満型で頭がうすく、そのぶん口のまわりにひげを生やしているから、なかなかの貫禄《かんろく》で、医学部長というより不動産部長といった雰囲気《ふんいき》がある。 「下手に訴えれば、我々は、自分で自分の首をしめる結果になりますのでな……あくまで我々は、学長先生をご信頼《しんらい》申し上げた。そのためにのみ、あのような危険な淵《ふち》を渡ったのです」 「感謝しています」  東京一郎は、端正《たんせい》な容貌《ようぼう》に誠意をみなぎらせて、ふかぶかと頭を下げた。厚生大臣にだって、こんな深い角度で会釈したことはないだろう。 「あなた方全員が、私を、かかる些事《さじ》によって、社会的に葬《ほうむ》り去るのは惜《お》しいと、口をそろえてくだすった……」 �サジ?�  当節の女子学生なので、志摩子も漢語に強い方ではない。  一瞬《いつしゆん》どういうイミかと首をかしげてから、やっと自分のこととわかって、猛然《もうぜん》と腹を立てた。 �うら若い乙女《おとめ》の命を奪《うば》っておいて、それがとるに足りないとはなんだ!� 「……私は心から感動した。あなた方の恩義に応《こた》え、日本医学界の進歩発展に、犬馬の労をいとわぬことこそ、罪をつぐなう唯一《ゆいいつ》の道であると悟《さと》ったのです」 �悟られてたまるか!�  志摩子は、へやの真ん中に置かれた大理石のテーブルに乗って、怒号《どごう》した。 �唯一の道は、自首することでしょうが! やい先生たち、私の死体を返してよッ�  天板を踏《ふ》み鳴らしたが、ことりとも音がしない。  学長の演説は、まだつづいた。 「……その誓《ちか》いをあらたにするため、こうして契約《けいやく》をととのえたのです。大坂部長のご指摘《ごしてき》を待つまでもなく、紳士《しんし》の誇《ほこ》りを以《もつ》て遵守《じゆんしゆ》する、いわば紳士協定です……どうか、ご心配なく」 �紳士が聞いて呆《あき》れるわ! 体を返せ、命を返せ、もちろん大学やめるから、入学金返せ!� 「そのことですけど」  と、都が東のタバコに火をつけてやりながら、いった。 「ゆうべお願いした……そのう……処理の結果を、ご報告いただく必要がございますわ」 �ショリ?�  又ぞろ考えた志摩子は、あっと叫んだ——つもりだが、むろん声は出ない。 �私の、体の始末だわ!� 「これまた紳士協定といえますわね……だれも行動のディテールを確認していませんもの。まさか手ぬきして、大学の庭に埋《う》めたなんてことはないでしょうけど、念のためどんな風に処理なすったかお話ししていただけると、お互いが安心できるんじゃございません?」  有能な秘書かもしれないが、石膏《せつこう》で固めたようなポーカーフェイスだから、都は女性的|魅力《みりよく》に乏《とぼ》しい。アンドロイドの試作版みたいで志摩子たちはだれひとり、都を女とさえみとめていなかったのである。  もっとも、こうしてみると、頭の回転はたしかにいい。  教授陣も一目《いちもく》おいているらしく、彼女の提案をうなずきながら聞いていた大坂部長が、賛成した。 「たしかに、そうだ。ではまず、私からお話ししよう」 �そらきた�  志摩子は緊張《きんちよう》した。ノートをとることも、テープにいれることもできない。頭へたたきこんでおかなくては!     6 「私がおひきうけしたのは、首でした」  さすがに医学部長である。大坂は、グロな主題にめげず、淡々《たんたん》と話しはじめた。 「我々医学を志す者にとって、人間の首はいたって親しいものですが、さてこれを決して発見されないように始末するのは……いい易くして行い難い。たとえ地中に埋《う》め、海底に埋めても、一旦《いつたん》人の目にふれてしまえば、現在の法医学は頭骨から容易に生前の顔を復元する。  その結果、久米志摩子の面影《おもかげ》があらわれるなら、ただちに司直の目は、わが東西大学の上に光るだろう。  なんとなれば、そのときまでには当然、被害者久米|某《ぼう》について、失踪《しつそう》の届け出がなされておるからです」  志摩子の胸が痛んだ。大坂部長はああいったが、ジュネーブ在住の両親が、私の行方不明に気がつくのは、いつになるのかしら。 �便りのないのは無事の便りと思ってよ、なんてうそぶいていたバチがあたったのかなあ� 「そこで私は、考えたのです。万一発見された場合にも、首が首の形をしていなければいい。そうすれば、警察が動きだすことはない」 「というと」  のみこみのわるそうな那古屋助教授が、たずねた。 「なにか、べつな形にカムフラージュするんですのね」  と、都。彼女は意外に推理小説を読んでいるようで、蘊蓄《うんちく》の一端を披瀝《ひれき》した。 「ドロシイ・セイヤーズは、生首を鞄《かばん》に入れましたし、都筑道夫《つづきみちお》はボーリングのボールへ詰めこみ、落語の世界では提灯《ちようちん》に見立てていますわ」 「ほかにも西瓜《すいか》とかビーチボールとか、アイデアはあるが、総じて球体は、原型を連想させるので、これを避《さけ》けました」  大坂は講義調になった。と思うと一転して、 「ご承知の通り、私は先年妻に死別している。……家に帰れば五人の子どもがおり、主として長女が面倒《めんどう》を見てくれているが、宿題の世話までは手が回らん」  話があまりに世帯じみたので、一座はぽかんとしている。 「昨夜も私は、とつおいつ思案を重ねながら、首のはいったバッグを、一旦《いつたん》家に持ち帰った」 「家に!」  仙田教授が叫《さけ》んだ。 「そりゃ危険だ」 「なぜです、仙田先生」 「なぜって……万一、先生のお子さんがバッグをあけたりしたら」  大坂は耳ざわりな声で笑った。 「私の家は、しつけをきびしくしています。かりにも父親が大切に抱《かか》えてきたバッグに、手をふれるような行儀《ぎようぎ》のわるい真似はさせん。時間に追われて、軽率に死体を処理するよりも、家に帰ってひと晩ゆっくり熟考するのがベターと信じたのです。  そもそも近ごろの若い父親は、女房《にようぼう》子どもの前でおろおろしすぎる。だからなめられて、財布の金をぬかれたりするのだ……父権を確立せぬかぎり、日本の将来は」  いくらなんでも脱線《だつせん》したと気づいたらしく、大坂部長は、無意味な咳《せき》をくりかえして、話をもどした。 「首は十分に血ぬきした上で防腐《ぼうふ》処理がほどこしてある。私は安心して、末っ子の宿題を手伝ってやった」  父親が子どもの宿題に手を出すようでは、口ほどもなく過保護の家庭だ。 「そして、ヒントを得たのです……なんとなれば、宿題の内容はプラスチック粘土《ねんど》による造形でありました」  大坂部長は得意そうに、ひげをふるわせた。 「これだ、と私は考えた。  幸い子どもが買いこんだ粘土の材料は、彩色《さいしよく》用の塗料《とりよう》とともに、たっぷりあった。  その夜私は、一室にこもり、ひそかに生首の周囲に粘土をぬりつけたのです。そしてつくりあげたのは、細首の一個のつぼです……凸凹《でこぼこ》とゆがんで首の長いつぼからは、もはや原型を連想することはできない。  さらに私は、そのつぼへ俗悪きわまりない色彩をぬりたくっておいた」 「大変おもしろうございますが、それで、どこへお隠《かく》しになりましたの」  そうだ、それを志摩子も聞きたい。 �可哀想《かわいそう》な私の首!  今年の学校祭には、ミス東西大学に立候補しろと、クラスメートからすすめられていたほどの美人だったのに。  つぶらな瞳《ひとみ》、すっきり通った鼻筋、われながら色っぽかった唇《くちびる》。  その上へ、こともあろうにプラ粘土をぬりつけるなんて……赤青黄と毒々しい色彩のつぼに仮装《かそう》させるなんて� 「あえていうなら、私はなんら隠そうとしなかった」  がらがら声が高まった。 「愚者《ぐしや》は必要以上にことを隠し立てようとする……そのためかえって馬脚《ばきやく》をあらわす。ゆえに私は、簡単に包装しただけで、新宿の一角に、うず高く積まれていたゴミの中へほうりこんだ」 「それはしかし……無謀じゃないですか」  はらはらして聞いていた仙田が、抗議した。 「犬や猫《ねこ》がゴミを漁《あさ》るでしょうし、浮浪者《ふろうしや》だって」 「各パーツの防腐防臭《ぼうふぼうしゆう》処置は、たしか仙田先生も協力してくださいましたな」  大坂は、じろりと仙田を見た。 「わが大学の技術的レベルは、日本の最高水準である。犬猫を誘《さそ》ういかなる臭気も、発生しないことを、私は信じています。……いわんや浮浪者が、あやしげな色と形のつぼに実用的興味を見出すであろうか。  なおつけくわえますと、当該《とうがい》ゴミ置場には、粗大《そだい》ゴミが多数集積されており、清掃局に確認をとったところ今日の午前中、収集に来る予定でした」 「ということは」  都が、無表情にうなずいた。 「すでにゴミは……いえ、つぼに擬装《ぎそう》した首は、その場所から持ち去られていますのね」 「さよう」  大坂は、重々しくいった。 「念のため、ミーティングのはじまる前、私は新宿にひきかえしてゴミ置場の状況《じようきよう》を視察してきた……冷蔵庫や自転車とともに、つぼもまた消えておった」 �そ……粗大ゴミといしょに、私の首が……�  志摩子は、床《ゆか》にへなへなと崩折《くずお》れようとした。が、もともと物理の法則を無視した存在であるから、重力にひかれて崩折《くずお》れるのではなく、重力と無縁《むえん》に宙に力なくただよってしまった。 �どうしよう……もう二度と、私は、私に会えないんだわ!�  粗大ゴミはどこへ行くのか。  冷蔵庫や洗濯《せんたく》機、自転車など、リフォームが可能であったり、スクラップとして値がついたりするものには、相応の流通経路があるのだろうが……できそこないのつぼに手間をかける者はいまい。 �じゃあ、夢《ゆめ》の島?�  志摩子は、泣くにも泣けない。そもそも泣こうにも、涙《なみだ》が出てこないのである。 「……これが私の担当した部分の臨床《りんしよう》報告です」  口をつぐんだ大坂は、ぎょろりとした目で、隣席《りんせき》の仙田教授を見た。 「つぎは仙田先生です。お聞きしましょう」 「は……はあ……では」  仙田がのろのろと立ち上った。  横幅《よこはば》が広くがっちりした体格の大坂と対照的に、どことなくしなびて、水分が足りない。  学生たちのあいだでは、愛妻家として通っていた。たぶん、かれの水気はのこらず奥《おく》さんが吸い上げてしまったのだろう。子どもはまだない。子種まで、奥さんが自分の体の栄養として摂取したらしく、ご主人プラス四キロの体重を誇《ほこ》ると聞く。  一座の注目を浴びながら、仙田はおもむろに手帳をひらいた。なにごとにつけても、真面目《まじめ》で几帳面《きちようめん》な人物である。そんなマジメ人間が、なぜ死体|遺棄《いき》の罪を犯したのかと、疑問を抱くむきもあろうが、堅《かた》い男だからこそ、上司の依頼《いらい》をことわることができないのだ。  生まれてこの方一本道を、営々と歩みつづける人生を過したかれには、組織外での価値基準がわからなくなっている。  真面目な人はこわい。  企業ぐるみの汚職《おしよく》、軍隊ぐるみの非人道行為などが行われたとき、もっとも組織に忠実に——従ってなんら反省することなく犯行に及ぶのは、世の中にもっとも数多く存在するマジメ人間なのであって、そのモデルというべき男が、仙田|石哉《いしや》教授だった。  力なく一座の頭上をただよっていた志摩子が、気をとり直して、仙田の肩《かた》ごしに手帳をのぞきこんだ。  一週間ぶんのスケジュールが、見ひらき二ページに書きこめるようになっている。日曜・火曜・木曜・土曜の欄《らん》に、赤インクで「悠《ゆう》」と記入してあるのが、まず目についた。 �?�  しばらく考えた志摩子は、その意味に思いあたって顔を赤らめた。 �いやだ……仙田先生の奥さん、たしか悠子《ゆうこ》という名前だったわ�  それぞれの曜日に添《そ》えられた時間目盛と照合すると、セックスの所要時分がひと目でわかる。四十を半ばまで越《こ》してこの勤勉、なるほど愛妻家だ……口さがない女子学生のあいだの噂《うわさ》では、全日本一穴守備隊隊長だそうだ。  もっとも、仙田先生と奥《おく》さんのあいだは、年がはたちほどはなれている。前任の某《ぼう》女子医大の卒業生と結婚《けつこん》したのである。晩婚という意味ではたしかにスロースターターだが、そのときの獅子奮迅《ししふんじん》のアタックぶりは、いまも某《ぼう》女子医大の語り草になっているらしい。ニブくてのろまな堅物《かたぶつ》でも、時と場合によっては、短気なハイドに変身できるのだ。だから志摩子の母にいわせると、 「男はこわいのよ……うちのパパをごらんなさい、上品な外交官というふれこみでお見合したら、三日めにはもうホテルへ連れこまれていたの。ええ、たしかに上品でしたよ……温泉マークなんかじゃなくて、東京でも一流シティホテルの、スウィートルームでしたからね」  そういうママだって、豪華《ごうか》なホテルの豪華な客室のムードに酔《よ》わされて、イチコロだったんでしょうとは、母思いの志摩子はいわなかったけれど、 �私だけは、男にだまされない……だまされるもんか�  と気負っていた。  だからはたちのこの年まで、ボーイフレンドに唇《くちびる》を与えたことは再々だが、断乎《だんこ》として最後の一線は踏《ふ》み越させない。  ともかくもママは賢明《けんめい》だった……豪華ムードに陶酔《とうすい》しながら、必死になってパパに結婚の約束《やくそく》をとりつけさせたんだもの。ベッドで組み伏《ふ》せられながら、ゼロ発信で電話をわが家へつなぎ、じかにパパと自分の両親を交渉《こうしよう》させて。 「あのときは私も、あやうく裸《はだか》で失礼しますと、電話にいうところだった」  と、いつかパパが笑ったっけ。 �ああ、パパ……ママ!  もう私、生きてあなたたちに会うことができないのよ。  パパもママも気の毒だけど、なんたって一番気の毒なのは私だわ。  くッそお!�  と、志摩子はお嬢《じよう》さん顔に似合わぬシビアなせりふを吐《は》いた。 �どうせ死ぬんなら、処女なんて後生大事にするんじゃなかった……私って小さいときから、おいしい御馳走《ごちそう》をあと回しにするつまんない習慣があったのよね�  志摩子が物思いにふけっているあいだに、仙田教授の説明はすすんでいた。 「原型をとどめまいという、大坂先生のお考えにつきまして、私は百パーセントの賛意を表するものでございます」 �ふん、部長になれると思って、せっせと尻尾《しつぽ》ふってるわ……ええっと、この愛妻家は私のどこを片付けたんだっけ。そうだ……両手だわ�  定石通りの形容だけど、白魚のような指だったと、志摩子は自分の手を思い出す。 �安ものの指輪しかはめていかなかったのが、不幸中の幸いかな� 「しかしですね。単体である首のそれに比較《ひかく》するとき、上肢《じようし》一対《つい》というのは、数量的にも形状的にも、きわめて擬装《ぎそう》がむつかしいのでございます」 �ま、そうでしょうね�  志摩子はだんだんひとごとのような気がしてきた。 「そのときふと思い出しましたのは——これは私が、悠子を連れて、しばしばを顔を出しております銀座のバーで見かけた代物《しろもの》でありますが、ビニール製のウイスキーボトル。実物そっくりのデザインですが、巨人国から輸入したように、すこぶる大きくつくられている。人間の片腕《かたうで》なら、楽に収納できるのでございます。  たまたま悠子が、ルームアクセサリーとしてそれをほしがりましたので、バーのマスターに話して、二本だけわけてもらったのが、大学のロッカーにしまってありました。  悠子の誕生《たんじよう》祝いにするつもりで、家に持ち帰るのをおくらせていたのです。  これは使える。  私そう考えまして、学長先生よりお預かりした二本の………」  いい辛《づら》そうに、仙田は、流れてもいない汗《あせ》を、ワイシャツの袖《そで》で拭《ふ》いた。  冷房《れいぼう》も除湿装置《じよしつそうち》も、ちゃんと働いているはずなのに、日ごろ行儀のいい教授講師陣は、全員いつの間にか上衣をぬぎ捨てていた。 「二本の、アームをですな……」  志摩子は、つい失笑した。  まるで電気スタンドか起重機だ。 �アームだけになったお嬢《じよう》さん、アーム嬢か……あら、いい洒落《しやれ》だわ。ほんと、噫《ああ》無情、レ・ミゼラブルよ�  だんだんやけくそになってきた。 「……ウイスキーボトルに封《ふう》じこめました。ビニールの一部を破って中へ押《お》しこみ、接着剤でもと通りくっつけてから、空気を入れますと、ちゃんとボトルの形をとります。  銘柄は、ブラック・エンド・レッド及びカティ・ラークでありまして、どちらも黒に近い壜《びん》の色であります。  なお、ボトルに入れるにあたって、二本のアームは黒のマジックをぬり、黒い紙で包んでおきましたので、外からは決して見えることはございません。むしろ、巨大ボトルにふさわしい重量があって、どんな想像力ゆたかな人間でも、この中にアームがはいっていようとは、夢にも思わぬはずであります」 「それで……どこへ隠《かく》したんですか」  あい変らず事務的に、都が訊《き》く。 「ええ、その点につきまして」  仙田教授は、ハンケチを取り出して、ごしごしと額を拭《ふ》いた。 「実は昨晩、私と悠子は夜のドライブに出かける予定でありました」  そういえば、土曜日には仙田教授の講義はなかった。 「行く先は葉山《はやま》の別荘《べつそう》……そこにはウェットスーツやシュノーケルが常時備えつけてありました……」 「ほう」  と、東学長が感心した。 「すると仙田先生は、久米くんの腕《うで》を海底へ捨てたのかね」 「はあ」  仙田はボスにほめられた嬉《うれ》しさを、隠そうともせず、 「スキンダイビングは、悠子に教えられて、私もかなり上達しておりますので。……海中の岩のあいだに埋《う》めておきました。万一、なにかのはずみで人の目にふれましても、おもちゃのビニールボトルですから、それ以上の注意をひかないでしょう」  志摩子はうんざりした。  仙田の別荘なんて、行ったことがない。かれとかれの愛妻が、どのあたりでダイビングを楽しんでいたのか、知る由もない。 �それに……幽霊《ゆうれい》って、海へもぐれるのかしら�  船幽霊なら聞いたことがあるが、海中の幽霊なんて初耳だ。おまけに生前の志摩子は、ビキニこそ半ダース持っているが、それをろくにぬらしたこともない、決定的な金槌《かなづち》であったのだ。     7 「うまく会議にもぐりこめたんだろうな……」  軍太がまた腕を組んだ。さっきから腕を組んだりほどいたり、あぐらをかいたり立ち上ったり、なんとも落ち着かない気分なのだ。 「心配しなくても、今の志摩子さんはアンタッチャブルだからね」 「気楽でいいよ、お前は」  と、軍太が腕をほどいた。 「一度でも恋愛《れんあい》体験をしてみろ……おれの気持がわかるようになる」 「昔はものを思わざりけり……か。要するに心臓が高鳴るんだろう。急性弁膜症《べんまくしよう》みたいなもんだ。ぼくはそんな患者《かんじや》になる気しないね」 「ふん。どうせ秀介は、心臓にまで脳味噌《のうみそ》を詰めこんでるんだから……まだ帰ってこないのかな」  またもや腕《うで》を組む。 「聞こうと思っていたんだけど」 「なんだい」 「志摩子さんが帰ってきて、死体のありかがわかったら、どうする」 「どうもこうもない!」  と、こんどは軍太は、腕まくりした。 「すぐその場所を突きとめて、証拠《しようこ》を揃《そろ》えて、警察に……」  気負っていいかけたものの、そっとまくったシャツの袖《そで》を下ろした。 「犯人は、お前のお父さんだったな」 「遠慮《えんりよ》しなくてもいい………といいたいけどさ」  秀介はきゅっと唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「自業自得《じごうじとく》のパパはあきらめるにしても、うちのママは、いざというとき生活力がないからね……ヒステリーと更年期《こうねんき》障害がいっぺんに起こって、だめになりやしないかな……あ、だからといって」  少年は、軍太にあわてて手をふってみせた。 「パパの罪を見逃《みのが》せなんて、これっぱかしもいってやしない。ただ……」 「ただ、なんだよ。警察に届ける以外に、方法があるとでもいうのか」 「うん」  こっくりとうなずく。 「そんな方法が、どこにある? これが昔の話なら、学長たちには頭を丸めてもらって、島流しって方法もあるが」 「いや、パパより、志摩子さんのことだよ。軍太さん、恋人《こいびと》が幽霊《ゆうれい》のままでいいのかい」 「なにい」  軍太は、半分|呆《あき》れて、半分|怒《おこ》った。 「幽霊で嬉《うれ》しいわけがないだろう。いっしょにお茶も飲めない、手もつなげない。ベッドにはいることもできない……おっと、教育上わるかったかな」 「今さら手おくれだよ」  秀介は笑った。 「ぼくだって青春前期の中学生だからね。パパのデスクの抽斗《ひきだし》に、歌麿《うたまろ》の春画がはいっていることまで知ってるのさ」 「それなら聞くこたねえだろう」 「志摩子さんに、生身の人間でいてほしいんだね……つまり、生きかえってほしいんだよね」 「あたりきしゃりき」  軍太が大声をあげた。 「だが、そんな、できもしないことをいうな! いくらお前が、大秀才だからといって……待てよ、おい」  急に軍太は、畳《たたみ》の上に手を這《は》わせて、秀介の正面へ顔を突《つ》き出した。 「秀介!」 「わっ……急にアップで迫《せま》らないでよ」 「ひょっとしてひょっとしたら……おれの志摩子を生き返らせることができるのか」 「断言はできないよ……成功の確率は、うんと低いと思うよ」  秀介にしては、控《ひか》えめな表現だ。 「ぼくが優秀であることはみとめるけれど、幽霊《ゆうれい》につきあうなんてはじめての経験だし、それも軍太さんの目と耳を介《かい》してじゃあね……ましてタナトロギーなんて、興味はあっても勉強したことがない」 「タナトロギーてえのは、なんだ」 「ギリシャ語で『死』のことをタナトスというのさ。それから来た、蘇生学《そせいがく》という医学部門だよ。ソ連のメチニコフって学者が研究していた。  たとえばレニングラード大学のタナトロギー研究室では、動脈を切断されて死んだネコを、生きかえらせることに成功した……  だからといって、人間の場合でうまくいくかどうかわからない。まして志摩子さんは、死んで一昼夜たっている……」 「できるのかできないのか!」  軍太が癇癪《かんしやく》を起こした。めったに頭へくることのない若者だが、志摩子に関しては特別なのだ。 「科学的にはできっこないよ。  だけど、それをいうなら幽霊だって、科学的にはあり得ないんだ。  ぼく、考えるんだけどね……哲学者プラトンは、 『魂《たましい》は不死であるばかりでなく、永遠である』  といい、アリストテレスは、 『肉体がほろびれば、魂もほろびねばならない』  と説いている。  あるいはどちらのいうことも、真実なのかもしれないよ」  ひどく思索《しさく》的な目で、秀介がいった。 「たとえていうなら、ここに強力な磁性体がある。一定時間たってから、それをとりのけると、磁性体の置かれていた空間に、残留磁場がみとめられる。  人間の精神活動も、それに近いんじゃないだろうか……肉体は滅失《めつしつ》しても、しばらくのあいだ精神エネルギーが空間にとどまって、それと波長の合う人にのみ、可視|可聴《かちよう》の存在となる」 「わかったようなわからんような話だが……するとそのエネルギーは、だんだんと消えていくのか」 「エネルギーが減衰《げんすい》していくのは、当然だろ」 「じゃあ、いつか彼女《かのじよ》は、おれにも見えなくなる!」 「たぶんね」 「そ、そんな……ひでえ」  軍太がうめいた。 「なんとかならねえスか!」 「仕方がないんだよ。志摩子さんの亡霊《ぼうれい》があらわれたのは、いってみればそれだけ彼女の恨《うら》みが強かったからだ。大多数の人間は、アリストテレスがいうように、死ねばそれっきりさ。  憎《にく》しみも、むろん愛も、時の流れとともに風化する……志摩子さんが、死にたくなかった、あいつらが恨めしい、その思いをいつまで持ちつづけていられるかどうか。  現世への執念《しゆうねん》が消えれば、志摩子さんも消える……仏教でいうなら『成仏《じようぶつ》した』ってことになるんだよ、きっと」 「成仏なんて、させないぞ」  軍太はおそろしく自分勝手なことをいった。  真っ正直な、これが本音だ。 「なにがなんでも、消える前に、そのタナ……タナ卸《おろ》し」 「タナトロギー」 「そいつでもって、志摩子さんを生き返らせてくれ! 科学的にできないというのなら、非科学的でけっこう。贅沢《ぜいたく》はいわん」  医学の使徒にあるまじきことばだ。 「だめでもともと、なんでもやってみる!」 「それならいうけどさ……マイナスかけるマイナスはプラスになるような気がするんだ」 「あ? よくわからん」 「ぼくにだってわかるもんか。でも、死んだ人間がもう一度死ねば、生きかえるってこと、ありそうだろ」  軍太が問い返そうとしたとき、電話のベルが鳴った。  ぎくりとして、ふたりは顔を見合せた。——志摩子が、会議の模様を知らせるため、電話してきたのか。  よく考えると、それはナンセンスだ。幽霊《ゆうれい》の彼女に、ダイヤルを回すことはできなかった。 「もしもし」 「岩手《いわて》先生でいらっしゃいますか。東でございます。夜分おそれいります……うちの秀介が、まだお邪魔《じやま》しているんでございましょうか」  ことばは丁寧《ていねい》だが、かなりの切り口上だ。軍太は電話機の前ながら、反射的に居住まいを正した。 「はっ、はい」 「もしおりますなら、お手数ですが電話を代って下さいまし」 「いえ!」  大子《だいこ》夫人の語気におそれて、軍太はつい、秀介の存在を否定してしまった。 「先ほど、お帰りになられました」 「さようでしたの。それはまあ、おさわがせ申し上げました」  電話が切れるや否や、秀介は口をとがらせた。 「あんな返事されたら、ぼく、たった今飛んで帰らなきゃならないぜ」 「うむ、そうか。そうだな……しかし」  電話を秀介に代っていても、夫人のあの権幕では結果はおなじだったと思う。 「仕方がない。ぼく帰る」  不承不承《ふしようぶしよう》ではあるが、秀介がお神輿《みこし》をあげた。 「明日は日曜だからね。なるたけ早く家を出て、軍太さんちへ来るよ。そのときゆっくり、相談しよう」 「うん。タナ……なんとかについてだな。頼《たよ》りにしてるぞ。秀才」  肩《かた》をたたかれて、秀介は苦笑した。 「水泳よりむつかしいや。なんたって、ぼくまだ一度も死んだことがないもん」     8  学長室に附属《ふぞく》する応接間では、京の宮都によるワゴンサービスで、一同にブランデーが振《ふ》る舞《ま》われていた。  壁《かべ》の一面を占領《せんりよう》した、マホガニー色のサイドボードの中で、主役顔だったナポレオン陛下の出陣である。  いくら神経がよりあわせた針金のようなメンバーでも、しゃべって聞いて、心浮きたつたぐいの話ではない。アルコールの力を借りたくなるのも、無理はなかった。  仲間外れの志摩子も、酒の匂《にお》いだけはたっぷりお相伴《しようばん》することになった。お猪口《ちよこ》いっぱいで顔を真赤にするほど酒に弱い彼女だから、有難|迷惑《めいわく》なサービスである。  報告の順番は、那古屋助教授に回っていた。  度の強いメガネをかけた猫背《ねこぜ》の男だ。一座のすべてに借金をしているのかと思うほど、卑屈《ひくつ》な態度が志摩子をいらいらさせた。 �おらおら、男ならはっきりと口をきけっちゅーんじゃ!�  いい加減酔《よ》ってきた志摩子は、大理石のテーブルの上で横になり、ワンピースの裾《すす》をもちあげて、ポリポリと太腿《ふともも》をかいた。  幽霊《ゆうれい》が痒《かゆ》いなんてふしぎだが、秀介説によればここにただよっているのは、現世に残留した精神の波動だ。死亡直前の意識がそのままつづいているから、そのとき虫に刺《さ》されていたところは今でも痒く、そのとき破れていたワンピースは今でも破れている……らしい。 「私のご報告は、いたって簡単でございまして……その……なにせ担当いたしましたパーツが、胴体《どうたい》では……正直なところ、手のほどこしようがなく……」  簡単とことわったにしては、ながながと泣きがはいった。 「加えてわが家は……いうところのミニ開発……十三|坪《つぼ》の敷地《しきち》に、なぜか建坪二十五坪の二階家が建っている、奇蹟《きせき》的な建売住宅でありまして……到底《とうてい》大坂先生のように、子どもたちが寝静まってから工作をするとか、あるいは仙田先生のように別荘《べつそう》へドライブするとか、さような余裕《よゆう》はまったくございませんで……  十三坪の敷地に、家族でもない人間の胴体を持ちこめば、他の者の居住面積は、それだけ圧縮される計算でして……  そこで私は、どうあっても、家に帰るまでに胴体を処分ずみにする必要にせまられたのであります」  那古屋はメガネを外し、左右のレンズを神経質にごしごしと拭《ふ》き清めた。 「もとより私には、目算があったのです。  私の家と大学の中間地点、ふだん車で通っておりまして、ひと際目についたデラックスマンションの工事場。  住宅新聞に掲載《けいさい》された広告によりますと、価格八千四百五十万円から、二億七千万円まで十八戸。各戸別セントラル冷暖房方式、セントラル給湯、高級システムキッチン、電子インターロック、各戸二台ずつ駐車場《ちゆうしやじよう》を確保。グランド・セタガヤいよいよ分譲《ぶんじよう》開始!」  聞いている連中は、びっくりした。 「それがどうしました。那古屋先生は、本学の職員むけ住宅対策が、あまりに貧しいとおっしゃるのか」 「いえいえ、とんでもない……そうした人間ばなれしたハイクラスな住宅に、私がひそかに反感と、関心を持っていたことを、おわかりいただこうと存じまして。  さて、宣伝文句は威勢《いせい》がよろしいのですが、実態は分譲会社と地元のにらみあいがつづいていることを、私は知っておりました。  工事中の騒音《そうおん》、完工後の日照権について、補償《ほしよう》問題が煮詰《につ》まらない内に、工事をはじめたのでこじれたんです。  住民パワーによる工事|妨害《ぼうがい》などありまして、区役所があいだにはいり、一部設計を手直しして、いよいよ次の日の朝から工事再開——そんな絶好のタイミングが、昨晩でございまして。  妨害で破られた塀《へい》の穴はそのままでしたが、住民のピケがとかれたあとは、静かな工事現場でした。建設会社の宿直が、屋台のラーメン屋に首を突っこんでいるのを見て、私は車を止め、こっそり穴から中へもぐりこみました。  もちろん、手に例の荷物を抱《かか》えて………なんとかなれば、そのマンションは地下ふかく穴を掘《ほ》って、基礎《きそ》工事のためコンクリートを流しこむ寸前であったのです」 「ほう!」  大坂部長が、嘆声《たんせい》をを洩《も》らした。 「たしかにコンクリート詰《づ》めにすれば完全だが……そんな危い橋を渡《わた》って、作業員に見咎《みとが》められたらいい逃《のが》れできんじゃないですか」 「は、おことばですが荷物は、私のコントラバスのケースに入れてありまして」  志摩子は、この万年助教授が、風貌《ふうぼう》に似合わず器用にクラシック音楽を弾《ひ》く、アマチュア演奏家であることを思い出した。 「なるほど。楽器もこんなときには役に立つんですな」  がはははと、大坂が耳ざわりな声で笑った。  そういえば大坂の趣味《しゆみ》はカラオケ、それも戦前戦後の歌謡曲《かようきよく》をがなりたてることだった。あるバーで、猛演《もうえん》する大坂に同席した那古屋が、ほとほと愛想が尽《つ》きたという様子で、同僚《どうりよう》に、 「歌というより河馬《かば》の遠吠《とうぼ》えですな」  と酷評《こくひよう》したことが大坂の耳にはいり、おかげで懸案《けんあん》だった教授|昇格《しようかく》が沙汰《さた》やみになったという噂《うわさ》は——いくらなんでも、でたらめであろう。 「叱《しか》られたら、立小便の場所を探していたとごまかして退散するつもりでした」  幸い宿直の目にふれることなく、コントラバスのケースから取り出された荷物は、基礎工事の穴ふかく下ろされた。 「今ごろは、コンクリート漬《づ》けになっていると思います」  報告がおわると、拍手《はくしゆ》が起こった。学会の研究発表とまちがえている。異常な状況《じようきよう》下だけに、みんな酔《よ》いの回るのが早いのだろう。  だから志摩子も、当然|湧《わ》いていい疑問が起きなかった。ただ、�良かった�と思っただけだ。 �高級マンションの基礎《きそ》工事ね……それならきっと、私が私をみつけることができるわ!�  のこる報告者は、北見|九州男《くすお》講師ひとりである。  ノックの音が聞えた。 (ひゃあ……またママだ)  帰宅がおそかったことで、散々お目玉を食らった秀介である。やっと自分のへやに落ち着いたと思ったら、もう敵襲《てきしゆう》とは。 「はーい」  だからといって賢明《けんめい》な秀介は、迷惑《めいわく》顔をしない。思いきり愛想よく答えてやると、顔を見せた大子夫人の機嫌《きげん》もよかった。 「秀ちゃん、これからお勉強?」 「もちろんだよ。軍太先生に教えてもらったとこ、おさらいするのさ」 「えらいわねえ……体をこわさないようにしてね」  心配するくらいなら、勉強をやめろといえばいい。 「おなか、すいてるんじゃなくて」 「うん。いくらか」  それは本当だった。秀介が軍太のへやを訪ねたのは、今夜で五度めだが、ただの一度だって、食うものが出たことがない。パックの紅茶が一度、インスタントコーヒーが二度、それだけである。 「お夜食、ありますよ。いただく?」 「うん」  にこにこと、秀介は答えた。このお夜食がママの手作りなら、もっと点数は高くなるのだが、 「フライドチキン? ドーナツ?」  成城《せいじよう》の駅前は、規模こそ小さいが商店街があり、夜おそくまで若者グループがたむろしているので、それにふさわしいファーストフードショップが、なん軒《げん》もあるのだ。 「ホカ弁よ」 「ああ、あそこ」  洋風ファーストフードに対抗して、和風のチェーン店が、バラエティ豊かに進出している。すしだのおにぎりだのにまじって、多彩《たさい》なおかずで人気を呼ぶ、「ホカホカ弁当大将」の支店が、ひと月ほど前営業を開始した。 「栄養のバランスがとれていますからね。あのお店を、使ってみることにしたの」  本気でバランスをとりたいのなら、夫人自身でつくるべきだが、夜八時以降は教養を高めるため、テープ相手に仏会話を独習するのが、彼女の日課となっていた。  ただし秀介は、教養というより実用が目的とにらんでいる。暇《ひま》と金のある奥《おく》さまグループで、ヨーロッパ大陸をのし歩く計画がすすんでいるらしいのだ。 (楽しめる内に楽しめばいいさ)  寛大《かんだい》な息子《むすこ》は、そう考えていたが、今となっては実現はあやしい。 (パパの罪が、ばれてしまえばおしまいだからな) 「両足というのは、実に参りました。とりあえずゴルフバッグに押《お》しこんだものの、どうすればいいかわからない。とつおいつ思案しまして、うんこれだ!」  北見が手を打ったので、ぼんやりしていた志摩子が、あわてて顔をそっちへふり向けた。気のせいか、自分の体が軽く——薄くなったようだ。  ワンピースごしに、テーブルトップのマーブル模様が浮きあがって見える。 �いやだ。このまま消えてしまったらどうしよう�  秀介が軍太に語ったことを彼女は知らないが、事実かれの心配した通り、少しずつ、少しずつ、志摩子は永遠の無にむかってひき寄せられていっていた。  気をとり直して、北見を見ると、バルングラスに景気よく注がれたブランデーを、ビールみたいな勢いで飲んでいた。 「私の近所に、ライオンをペットとして飼っている未亡人がいます。鍵《かぎ》がこわれて、檻《おり》から逃《に》げだしたことがあって、私ども猛烈《もうれつ》な抗議《こうぎ》を浴びせたんですが、ご本人は蛙《かえる》の面に水でした。  せめて、こんなときに役立ってもらおうと思いましてね。他の用件にことよせて、電話をかけてみたんです。あわよくば、彼女の留守中に檻の中へ、餌《えさ》を二本差し入れてやろうと………」 �冗談《じようだん》じゃないわ!�  志摩子は、あまりたまげたので、床《ゆか》へ下りるのも忘れて空中を滑走《かつそう》した。 �私を餌《えさ》にするなんて!� 「残念ながら、この案はだめでした」  と、北見がいった。 「あいにく、当のライオンが下痢《げり》を起こしていたんです」 �はあ�  拍子《ひようし》ぬけした志摩子は、北見の前にへたりこんだ。ずんぐりむっくりを絵に描いたような男だが、みてくれの割にはしっこい。いつか大坂部長が転居したときなぞ、医局のだれよりも早く手伝いにかけつけ、ひと仕事がすむと、浴室で部長の背中を流したという噂《うわさ》だ。 「つぎの案は、すぐひらめきました」 �どうせろくなプランじゃないでしょ�  と、志摩子が見上げる。 「私の家の近くに、懇意《こんい》にしております町工場があります。小さくはありますが、完全オートメで、操業時間中は、ご主人が監視員《かんしいん》としてつくだけ。  打ち明けて申しますと、ひとり者の私は、しばしばこの家で食事の世話になっており、その見返りとして、簡単な診療《しんりよう》をしたり、顔のきく医院を紹介《しようかい》したりしています」  一見したところ、北見はいたって庶民的《しよみんてき》で気さくな感じだから、こうしたつきあいは得意なのだろう。 「今日私は、餌《えさ》を……いや失礼、足をいつでも持ち出せるよう準備しておいた上で、工場をのぞきました。  操業中の主人に、私はいつものリラックスした調子で話しかけたのです。 『退屈《たいくつ》でしょう。三十分くらい代りましょうか』 『とんでもない。未来の教授先生に』 『ははは、私の力ではまだ当分助教授にもなれませんよ。毎日毎日|患者《かんじや》と学生の顔を見ていると、たまにはこうして機械に囲まれるのが安息になります。どうぞ、かまわずお出かけください』  主人を追い出した私は、餌を……いや足をひっぱりこみ、工場の材料タンクに入れました。あらかじめ十本の爪《つめ》はぬきとってあります。タンク内の肉塊《にくかい》は、豚《ぶた》と馬、それに少量の牛ですが、なにせ量販《りようはん》用のレベルのひくい肉ですから、そこに若干味のことなった材料が加えられても、問題はないかと………」 「いったい、なんの工場ですか」  じりじりしながら聞いていた那古屋が、口をはさんだ。 「あ、これはいかん………ご説明がまだでしたか。挽肉《ひきにく》からハンバーグをつくっている工場です」 「すると——どこか食品会社の系列工場かなにか」 「いや、れっきとした会社なら、衛生上問題のある町工場でつくらせたりしませんよ……近ごろになって業績が上向いてきた、弁当チェーンの下請《したう》けです。『ホカホカ弁当大将』という名を、聞いたことはありませんか」 「おいしいでしょう」  大子夫人がやさしくほほえんだ。 「うん」 「フライにサラダに高野豆腐《こうやどうふ》、ハンバーグだってついてるし」 「でも、このハンバーグ、ちょっと味がちがうみたい」 「そうお」  大子は、肉塊の端《はし》をひとつまみして口へ運んだ。 「スパイスが利《き》かせてあるのよ……このお値段にしては、お徳用だわ……おいしい、おいしい」  夫人が舌鼓《したつづみ》を打ってみせた。逆らうほどのことでもないから、秀介も、あんぐり口をあけて、のこりの肉をのみこむことにした。  第三章 上を向いて首|吊《つ》ろう     1  ……またひと回り、影《かげ》が薄くなったような気がする。  それでも志摩子《しまこ》は、なんの行動も起こさなかった。 �私の首は、ゴミといっしょに夢《ゆめ》の島へ……  私の両手は、葉山《はやま》の海底へ……  私の胴体《どうたい》は、超《ちよう》高級マンションの地下でコンクリート詰め……  そして私の両足は、ハンバーグとなって大勢の人間の弁当に……  これが私か�  つい二日前まで、青空をひとり占《じ》めにしたような気分で、東京の町から町を若鮎《わかあゆ》みたいに泳ぎ渡《わた》っていた久米《くめ》志摩子の末路がこの有様では、泣いても泣ききれない。  以前アメリカの医者が、人体を原料としてどの程度の化学製品ができるか、計算したそうだ。それによると、主なものは、  鉛筆九千本ぶんの炭素  マッチ二千本ぶんの硫黄《いおう》  安い石鹸《せつけん》六個がつくれる脂肪《しぼう》  薬一服にあたるマグネシウム  釘《くぎ》一本ぶんの鉄…… 「大したことないわね」  というのが、その話を聞いたときの志摩子の感想だった。  地球より重いはずの人間の命だが、つぶして金に換算《かんさん》すれば、二、三千円の代物でしかない。  学長たちを恨《うら》むファイトも、生き返ろうという意欲も失《う》せて、その場に坐《すわ》りこんでいる内に、知ってか知らずか志摩子の霊《れい》は、徐々《じよじよ》に——だが着実に、中空へ拡散しつつあった。  軍太がこの場に居合せたら、さぞ驚愕《きようがく》したことだろう。  志摩子の危機を救ったのは、電話のベルだった。  報告がおわって、ブランデーの酔《よ》いに沈《しず》みかけていた一座の空気が、だしぬけに凍《こお》りついた。  いまごろだれが、なんの用件でかけてきたのか……例によって、事務的に送受器をとったのは、都《みやこ》だった。 「東西大学学長室ですが……」 「先生に代ってくれ」  という声が、志摩子の耳にはいった。軍太《ぐんた》でも秀介《しゆうすけ》でもないようだが、男であることは、たしかだ。 「学長先生は、ただいまちょっと」 「死体をどう始末したか、事後報告の会議だってな」  冷静な都が、うっとことばを詰《つ》まらせた。相手はからかうような口調で、 「知ってるんだよ、おれは」 「いったいなにを……知ってるというの」 「突《つ》っ張るじゃないか。そうか、あんただな……学長の秘書さんは」  電話のそばに、東《あずま》が近づいていた。ものもいわずに送受器を取る。 「私が東だ」 「やあ、出てくれたね、良かった」 「きみは、なんだ。くだらん冗談《じようだん》なら聞いている暇《ひま》はない……切るぞ」  東が耳から送受器をはなしたために、かえってそこから洩《も》れてくる声が、全員に聞こえた。 「おい、人殺し」  志摩子の目に、全員がぎょくんと、硬直《こうちよく》したように見えた。 「なんだと」  対抗上学長もことばを荒《あら》らげたが、虚勢《きよせい》であることは、ありありとわかる。 「あんたも悪党だね……罪のない娘を殺してバラバラにして……そんな悪事が、人の目にふれずにすむと思ってるのか。え? どうなんだ」 「…………」  東は、乾《かわ》ききった唇《くちびる》を半びらきにした。のこる五人も、大|崩壊《ほうかい》のまっ只中《ただなか》だ。年の功でわずかにパニックに陥《おちい》るのは免《まぬか》れているが、小心な那古屋《なごや》助教授など、いまにもなにか叫《さけ》びだしそうで、それが自分にもわかるのだろう、手の甲《こう》に爪《つめ》を食いこませて、こらえている。 「証拠《しようこ》がほしいというのかね。うふ、そうやってあんたが、棒を呑《の》んだみたいにしゃっちょこ張ったのが、なによりの証拠じゃないか」 「…………」  学長は一言もない様子だ。  歯痒《はがゆ》そうに、都がそばで足ぶみしたのが、志摩子にはおかしかった。  電話のむこうにだれがいるのか知らないけれど、自分がやろうとしてやれなかったことを、代りにやってくれている。その思いが痛快だったが、ではどうして今度の事件を嗅《か》ぎつけたのかと考えれば、不可解でもある。  なんにせよ、テキは脅迫《きようはく》電話のひとつもかけようというのだから、肩書ばかりの学長にくらべて、はるかに迫力《はくりよく》があった。 「だまっておいでのようだから、こっちでしゃべらせてもらうがね。魚心あれば水心ってことばをご承知だろう」 「な、なに」  やっと学長は、声をしぼりだした。相手は明らかに失笑して、 「そういちいちこわがりなさんな。知ってることを、おそれながらと訴《うつた》え出るのはわけはないが、テレビドラマとちがって、本物のサツには、裕《ゆう》ちゃんもテツヤもいねえから、話がさっぱりはかどらねえ、下手すれば、こちとら痛くもない腹を探られるのがおちさ。  となると、この情報はあんたに売った方が金になる。ね、そう思わない? 思うだろう」  電話の相手は、余裕綽々《よゆうしやくしやく》だ。 「サツだって、地位も名誉《めいよ》もあるあんたを向うに回して、七面倒《しちめんどう》な捜査《そうさ》なんざ、したくない。  あんただって、その地位と名誉を根こそぎふき飛ばして、臭《くさ》いめしを食いたくはない。  かくいうおれも、一|文《もん》にもならないビジネスはやりたかない……このままじゃ、電話代の元手だって取れねえや」  青白かった学長の顔に、赤みがさしてきた。  かれは、送受器を押しいただかんばかりのポーズをとって、 「では、金さえ出せばだまっていてくれるというんだな」 「もちろん」  先方は、悠然《ゆうぜん》と答えた。 「いくらだ」 「大金がほしいなんて、無理なことはいわないよ。それよりほしいのは、学長さんの裁量で可能な固定給さ」 「固定給だと」 「そう、そう……つまりあんたの大学当局で、ひとり余分に事務員を雇《やと》ってくれればいい。出勤ナシ仕事ナシのね。人件費で落とすことにすれば、税務対策としても有利じゃないの」  人を食ったことをいう。 「ことわることも、雇ってすぐクビにすることもできないよな。こっちは、あんたの痛いところをつかんでる。殺人罪の時効は、なん年だっけ」 「…………」 「少くともそのあいだは、あんたは給料を払う義務があるぜ。証拠《しようこ》がないからって、のほほんとしてはいられない……日本医者会長の選挙も近いというし、こんなときにはちょっとした噂《うわさ》が命取りになる。慎重《しんちよう》に行動すべきじゃないのかね」 「……わかった」  東は、苦しげな声を押し出した。 「きみの申し出を受けよう」 「さすが学長さんだ」 「希望する給与額は」 「月額二十万円てとこだな」 「二十万」  たったそれだけ、というニュアンスが読みとれたとみえ、相手はいそいでつけくわえた。 「うふふ。貧乏人《びんぼうにん》の注文はみみっちくて、我ながらいやになる。最初の回だけ、敷金《しききん》……はおかしいやな、支度金として、五か月ぶん上乗せしてくれ」 「あわせて百二十万だな」 「おれだって出血大サービスのつもりだぞ。話がまとまったら、すぐにも会いたい」 「今夜中にか」 「そうだよ。大博士の大学長さんが、五十や百のはした金を、そこに持ってないとはいわせねえ」 「……よし。なん時に、どこで」 「一時間後。東西大学正門前といこう。もっとも、おれは行かないよ。使いの女に行かせる」 「女」 「いくら人の好いおれだって、じかにあんたの顔を見たかない。女は秋田《あきた》ジュン子というんだがね。来月からは、彼女の預金通帳に給料を振りこんでくれればいい。……ま、今日は新事務員の面接というところさ」  けらけらと、男——熊本塔吉《くまもととうきち》は、かん高い声で笑った。 「いま九時を過ぎたばかりだ。十時には、門のところへ迎《むか》えに出てくれよ。……じゃあな」  電話は、一方的に切れた。  しばらく、だれも口をきく者はなかった。     2  そのくせ、ひとりがしゃべりだすと、全員興奮しきった口調で応酬《おうしゆう》をはじめ、蜂《はち》の巣《す》をつつくようなさわぎになってしまった。  混乱の中にまきこまれて、といってもだれひとり体にふれてくるわけではないのだが、志摩子はくたくただ。 「学長先生、ひどいではありませんか」  泣きっ面になったのは仙田《せんだ》教授である。 「絶対|露顕《ろけん》することのない犯罪だなんておっしゃって……もしもぼくまで連坐《れんざ》したら、悠子《ゆうこ》になんといえばいいんだろう」 「先生は弱腰《よわごし》すぎます」  と、北見《きたみ》がかみついた。 「証拠《しようこ》がなければ、頑《がん》としてつっぱねるべきでした!」 「今からでも、おそくないでしょう……思いきって、その女をすっぽかしてやれば……」 「おそい。もうおそい」  がらがら声で、大坂《おおさか》がいう。 「少しでも頭の回る男なら、今の電話を録音しとる」 「殺しましょう」  いたって事務的に、都がいったので、男たちはいっせいに口をつぐんだ。 「こ………殺す? 京《きよう》の宮《みや》くん。きみはいま、そういったのかね」  東京一郎《あずまきよういちろう》の顔は、ふたたび蒼《あお》ざめている。 「ええそう申しましたわ」  と、京の宮都は、五人の男たちが束《たば》になっても及ばぬほどの冷静さで、くりかえした。 「殺すほかないと思いますの……たしかに今は、脅迫《きようはく》者としてささやかな申し出ですけれど、いずれ欲望はふくれあがって参りますわ」 「そういいきれるのかね」  学長はあくまで弱腰《よわごし》だ。ひとり殺すのもふたり殺すのもおなじと、ひらき直れないところが、インテリのアキレス腱《けん》である。 「たいていのテレビドラマや映画は、そうなっておりますわね。将来の禍根《かこん》を断つ! それができないくらいなら、はじめから死体|遺棄《いき》なんて考えるべきではございませんことよ」  たしかにその通りだ……一旦《いつたん》発射された弾丸《だんがん》を、停《と》める方法はないのだ。 「学長先生。部長先生。そのほかの先生方も、しっかりなすってください」  都が胸を張ると、意外なほど豊かなバストであることがわかった。ふだんは青白い、月明かりのような頬《ほお》の色が、今夜ばかりは赤々とかがやいて見えた。 �ふうん………�  志摩子は、いささか都に対する認識を改めた。からくり人形めいて、生気のなかった女性が、この正念場で予想外の魅力《みりよく》を発揮しはじめようとは。 「みなさん方は、日本医学界の人材ぞろいでいらっしゃいますのよ。それがなんですか。どこの馬の骨ともわからない脅迫《きようはく》者づれに、いいようにおどかされるなんて。  自信を持ってください、学長先生!」  都は声を励《はげ》ました。 「先生が刑務所《けいむしよ》へおはいりになったら、それこそ国家的損失です。虫けらみたいな脅迫犯人とは、いっしょになりませんわ……先生の自由を保障するために、虫けらをひねりつぶすべきだと存じます!」  一度は彼女の魅力をみとめただけに、その反動でよけい志摩子はかーっとなった。 �なにをいってるのよ! 脅迫者が虫けらなら、殺人犯は英雄《えいゆう》とでもいいたいの! 京の宮都さん�  志摩子は、都の前にずいと立った。  ふーん……こうして見ると、都の目鼻立ちのひとつひとつは、意外や冴《さ》えていた。それがどうして、コピーみたいに無味|乾燥《かんそう》な容貌《ようぼう》として、みんなの目に映っていたのだろう。  もしかすると、彼女は、そのへんを自分で心得てコントロールしていたのかも知れない……若くて、こわいもの知らずの志摩子は、クラスメートにも教師にも、惜《お》しみなく愛嬌《あいきよう》をふりまいていた。だが、志摩子より、多分十くらい年上の都は、自分の魅力《みりよく》を出し惜しみ——というより、指向性を与《あた》えていたとみえる。  これぞと思うターゲットを射ぬくため、女としての全精力を、ひとつの方向にふりしぼっていたのだ。  標的はだれ? �東京一郎�  考える手間も時間もいらず、その名がぽっかり飛び出してきた。 �そうか……わかった!�  志摩子は大声をあげた——ところで、自分の耳にだって聞えやしないのだが、ともあれ心理的には大声をあげた。  ギブ・アンド・テイクのルールが、学長とのあいだに確立している大坂たちはいい。そこになぜ、京の宮都が一枚|噛《か》んでいるのか、学長秘書だからとつい見過してしまったけれど、考えてみればだれが好きこのんで、殺人罪の片棒を担ぐだろう。 �学長にしてみれば、秘書には、ことあたらしく見返りを与えなくても、ついてきてくれるという自信があったんだわ�  男と女、か。  これまた都の好きなテレビドラマによくある話。むすびつくのに、なんの説明もいりはしない。  都があえて魅力のほどをセーヴしていたのは、第三者に学長との仲を想像させまいためだった……あんな面白味のない女に、学長が興味を示すはずがないと、頭から考えさせるためなのだ。 �そ……そうなると、私は、なんだったのよお�  志摩子は狼狽《ろうばい》した。 �学長にとって、私は浮気以下、つまみ食いの対象でしかなかったんだ! はん、つまみ食いされるのがいやで殺されて……まるでいいとこありやしない�  犬死に、ということばがある。  革命家がより良き明日のために死ぬなら……兵士が祖国死守のために死ぬなら……死者はそれなりに、安らかに目をつむることもできようが、 �これじゃあんまりひどすぎる!�  志摩子の怒《いか》りを圧して、教授たちは口々に叫《さけ》んでいた。 「完全犯罪をめざすのだ」 「我々の知能がひとつに集積すれば、きっとできます」 「生きるべきか死ぬべきか、ハムレットの心境ですな」 「しかし……」  と、那古屋《なごや》がおそるおそる疑問を口にした。 「十時にあらわれるのは、ジュン子と名乗る女だけです。電話をかけてきた男を、どうやってみつければよろしいのでしょうか」 「拷問《ごうもん》だ」  大坂部長が、しゃがれ声でわめいた。 「女を捕《とら》えて、逆さまに吊《つ》るせ」 「男の名と所を吐《は》かせてから、殺すんですな」  北見講師が、嬉《うれ》しそうに歯を見せた。人一倍とがった犬歯だった。 「脅迫《きようはく》者の共犯だ……おいそれとしゃべらんかもしれません」 「そのときは、手を変え品を変えて痛めつけましょう」  ずるりと唾液《だえき》をすする音がひびいた。 「麻酔《ますい》とメスの使い分けなら、ゲシュタポも特高も、我々医師ほどには場数を踏《ふ》んでいない」  アウシュヴィッツか石井《いしい》部隊のような話になってきた。 �もうやめて!�  たまらなくなった志摩子は、頭を抱《かか》えて、その場にしゃがみこんだ。  同時に、重い大理石のテーブルが、質量を失ったのである。 「あっ」 「な……なにごとです」  空中|浮揚《ふよう》を開始したテーブルに、教授たちは仰天《ぎようてん》した。マジックショーでもない限り、およそこの世にあり得ない奇蹟《きせき》である。テーブルは、一座の鼻先をなめるようにして、あっという間に二メートルの高さまで、上昇《じようしよう》した。  一瞬都の手が、テーブルトップの上をまさぐった。そんなはずはないと思いながらも、天井《てんじよう》から目に見えぬ糸で吊《つ》るされているのかと疑ったのだ。  手は、糸にもワイヤーにも触《ふ》れなかった。  テーブルは、まぎれもなく地球の重力を無視して宙に浮かんでいた。  のみならず、その上に乗っていた灰皿《はいざら》が、まるで投身自殺を志したかのように、抛物線《ほうぶつせん》を描いて、床《ゆか》へダイビングした。 「わっ」  あやうくぶつかりそうになって、飛びのいた仙田の足元で、ガラスの灰皿は、するどい音をたてて砕《くだ》け散った。  同時に、サイドボードの抽斗《ひきだし》という抽斗が、抜《ぬ》き出されまた押《お》しこまれた。よく磨《みが》かれたガラス戸が外れて、魔法《まほう》の絨緞《じゆうたん》ででもあるかのように舞《ま》いあがった。 「シャンデリアが!」  だれかが悲鳴をあげた。  ダイナマイトを内蔵していたみたいに、天井の照明が、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に砕けはじめる。百千の風鈴《ふうりん》がくるったような音をたてながら、きらきらかがやく光の滝《たき》が、六人の頭上へ落下してきた。  学長も部長も、色を失って壁際《かべぎわ》に避難《ひなん》する。  壁を埋《う》めていた歴代学長の肖像画《しようぞうが》が、ひとつまたひとつととんぼ返りした。  床に敷《し》き詰められた厚手のカーペットが、みるみる波打ちだした。どっしりした革張りのアームチェアが、おもちゃの家具みたいに、仰向《あおむ》けになった。風もないのに毛足をぞよめかせて、ばりばりとカーペットが床からはなれた。と見ると、床板そのものがめくれはじめた。  空中を、大理石のテーブルがプロペラのように回転している。あの重量物をたたきつけられたら、たいていの人間は血へどを吐いて絶息するだろう。  恐怖《きようふ》の目を見ひらいて、身動きもできずにいる六人にむかって、花瓶《かびん》から舞《ま》いあがった真紅のバラが、手裏剣《しゆりけん》のようにおそいかかった。 「あ痛っ」  北見が頬《ほお》を押《おさ》えている。その指のあいだから、バラより赤い血が滲《にじ》み出てきた。トゲが頬を掠《かす》めたにちがいない。  カーテンが、競走馬のたてがみよろしく吹き流れると、窓全体が凄《すさ》まじい震動《しんどう》をはじめた。  クリスタル製のテーブルライターが、ひとりでにカチッと鳴って、長い炎《ほのう》を吐《は》き出した。ゴルフの優勝盃《ゆうしようはい》が踊《おど》り出したと思うと、宙で一回転して、大坂部長の頭へすっぽりはまりこんだ。  今や、壁《かべ》も床《ゆか》も天井《てんじよう》も、巨大な音叉《おんさ》と化したように、鳴りひびき、どよめいている。応接室そのものが、オルゴールの共鳴函《きようめいばこ》になったかと思われ、日本医学界の人材たちは、荒れくるう超常《ちようじよう》現象の嵐《あらし》の中で、あわれにちっぽけな人形でしかなかった。 「は……早く……」  学長が、かすれた声で都を叱咤《しつた》した。 「ドアをあけたまえ」 「はい!」  この期《ご》に及んでも、秘書はかすかに冷静さを保っていた。かっとむき出した目で、凶器《きようき》になりかねない空中のテーブルをにらみ据《す》えながら、カニの横這《よこば》いみたいな動作で、廊下《ろうか》に面したドアにとりついた。だがどうしたことか、ドアがひらかない。  ノブを回そうとして、その握《にぎ》りが、都の手に逆らって反対方向へ回るのに気づくと、はじめて彼女の面上を恐怖の色がおおった。 「ひ………」  そんな声が洩《も》れた。 「お、お化け屋敷《やしき》だわ!」  およそ彼女《かのじよ》らしくないボキャブラリーで表現したものだが、これがいわゆるポルターガイスト——騒霊《そうれい》現象である。  やり場のない怒《いか》りが引金となって、無意識の内に超能力を発揮してしまったご当人、久米志摩子は茫然《ぼうぜん》とさわぎを眺《なが》めている。  ややあって、彼女は、腹を立てるより先に、しなくてはならないことに思い当った。 �いけない! 軍太さんに知らせなくては!�  思うと消えるのがいっしょだ。  それに同調して、あらゆる物体の動きが止まった。  地ひびき立ててテーブルが床へ落ち、空間を乱舞《らんぶ》していたバラの花が散り敷《し》かれ、半狂乱《はんきようらん》でノブと格闘《かくとう》していた都は、呆気《あつけ》なくドアがひらいたので、尻餅《しりもち》をついてしまった。  廊下《ろうか》に人の気配もない。  あれほどの騒動《そうどう》の物音がガードマンの耳にさえ届かなかったのだろうか。  ふと気がつくと、窓の外にじとじとと雨の降る音がつづいていた。……     3 「あいつだ」  志摩子の知らせをうけて、軍太が舌打ちした。 「ほらさっき、おれがのぞいた『吉四六《きつちよむ》』の熊さんだよ」 �私に気がついたというの? でも、それだけのことで、なぜあんなにくわしく、学長の犯行までわかったのかしら� 「あいつのほかにいるわけがないんだから……」  軍太は考え考えいった。 「おれと秀介の話を、立ち聞きしていたのかもしれない。このアパートと来たら、防音能力ゼロの壁《かべ》とドアなんでね」 �ほうっておけば、殺されるわ……なんとかしなくては�  志摩子が促《うなが》したが、軍太の反応はにぶい。それというのも、秀介が帰り際にいったことばを考えていたためだ。 「死んだ人間がもう一度死ねば、生き返るんじゃないかしらん」  非論理的、というより超《ちよう》論理的な発想だが、もともと志摩子の幽霊《ゆうれい》にしたところで超論理の存在だから、案外このアイデア、実用的かもしれなかった。 「……つまりあいつの考えだと、まごまごする内に魂《たましい》のバッテリーがあがって、正真|正銘《しようめい》きみはこの世からおさらばになる」 �いやだわ、そんな�  大学で死体処理の報告を傍聴《ぼうちよう》している最中に、いく度かうそ寒い思いにとり憑《つ》かれたが、あれはたしかにその予兆であったのだ。  志摩子は、服の裾《すそ》を見た。  あのとき透《す》けて見えた服が、今はいつもの布地の質感にもどっている。 �秘書に怒《いか》りを爆発させた余波で、なんとか持ち直したのね�  だが、それも長くはつづかないとすれば—— 「ぼくはきみに、生き返ってほしい」 �私だって!� 「じゃあ頼《たの》む……きみのためにもぼくのためにも、志摩子さん死んでくれないか」  大|真面目《まじめ》な顔でいわれて、志摩子は戸惑《とまど》った。 �どうすれば死ねるのかしら� 「さあ」  と、軍太は頼《たよ》りない。 「実はそれを、いろいろ考えていたんだけど……庖丁《ほうちよう》もナイフも、きみの体を通り抜けるからなあ……ピストルもだめ、交通事故も無効」 �溺《おぼ》れ死ぬのはどう?�  金槌《かなづち》の彼女だから、溺れることにかけては自信がある。 「なるほど」 �やってみましょう�  志摩子は立ちあがった。 �善は急げよ� 「急ぐのはいいが……これから海へ行くのかい」 �海まで足をのばさなくても、洗面所があればためせるわ� 「風呂《ふろ》場の中に小ちゃいのがあるけど」 �小さくたって、顔を沈《しず》めることができればいいのよ�  六畳一間だが、感心に最小面積のユニットバスが附属《ふぞく》している。近ごろの若者は、ろくに銭湯へはいったことがないから、バス・トイレは必需品となっていた。  腰《こし》のあたりが帯状に汚《よご》れのついたバスルームで、軍太は洗面器に水を張った。 「さあ」 �ありがと�  志摩子は、女ならだれでもついているくせで、洗面器の上の鏡をのぞいたが、そこに映っているのは、背後の軍太だけだった。 �やってみるわね�  目を閉じ、顔中の筋肉に力をこめて、えいと水の中へ突っこむ。 �あら�  全然つめたくない。  目をあけ、息をしてみる。  苦しくもなんともない。 �だめだこりゃ�  顔をあげると、軍太が呆《あき》れたように声をかけた。 「まるっきり濡《ぬ》れていないぜ」 �水も海も現実の世界。霊界《れいかい》の私に、干渉《かんしよう》することはできないんだわ� 「そうと決まったら、きみの持っている道具だけで、なんとか死んでもらわなけりゃ………」 �道具なんて、持ってないもん� 「裁縫セットくらい、身につけていなかったのか」 �申しわけないけど、下宿に置いたままなの�  せめて小さな鋏《はさみ》でもあれば、のどを突いて死ねるのだが。 「参ったね」  畳のへやにもどった軍太は、恋人《こいびと》の姿を頭の天辺《てつぺん》から足の爪先《つまさき》まで、見上げて見下ろした。  ピアスのイヤリングが凶器《きようき》になるとは思えないし、さりとてハイヒールで自分の頭を殴《なぐ》っても死ねまいし…… 「それだ!」  軍太が、志摩子の腰《こし》を指さした。白いエナメルのベルト。 「そのベルトで、首を吊《つ》ればいい」 �首を?�  志摩子はあまり乗ってこなかった。 �縊死体《いしたい》ってみっともないんでしょう。洟《はな》垂らしたりおしっこ洩《も》らしたり� 「贅沢《ぜいたく》いってはいられないよ」  と、軍太がたしなめた。 「きみがどんな凄《すさ》まじい死に方をしても、見ることができるのは、おれひとりだしね」 �ひとりいれば沢山《たくさん》だわ� 「まあまあ……我慢《がまん》しろよ。大事の前の小事だぜ」 �首を吊るのが、そんなに小事なの!� 「いちいち怒《おこ》るなよ。てるてる坊主《ぼうず》を見ろ、年中首吊ってる」 �私は坊主じゃありません。ちゃんと髪《かみ》生えてます�  文句をいいながらも、あきらめたのだろう、ベルトを抜《ぬ》いた。 �ええと� 「なにを上向いてるんだ」 �だって……このベルト、どこへかけるのよ� 「そりゃあ木の枝とか、鴨居《かもい》とか……あっ、いけねえ」  やっと軍太も気がついた。 「きみの世界には、なんにもないんだな」 �まさかこうして�  と、志摩子は首にからませたベルトの両端を手でつかんだ。 �自分で自分を絞《し》め殺せというんじゃないでしょうね� 「いいたいとこだが、至難の技《わざ》だろう……それができるくらいなら、いっそ舌を噛《か》んで死ぬ方が」  志摩子はふるえあがった。 �できなあい。とっても、自信なあい� 「そんな、べそかかないでさ……なんとか工夫がつかないもんかね」 �軍太さん、見物人だからのんきなことをいってるのよ!�  彼女はあたり散らした。せっかく希望の光が見えたのに、糠《ぬか》喜びに終りそうだから無理もなかったが、見物人といわれて軍太だってカチンときた。 「のんきどころか、身が細るほど心配してるんだ! 見ろ」  と、ズボンと腰《こし》のあいだに手を入れたが、だぶだぶなのはこのサイズがもっとも値を崩《くず》していたから、買ったのだということを、本人ももう忘れている。 「できることなら、おれの方からきみの世界へ行きたいよ」 �あなたがこっちへ来て、どうすんの� 「ナイフでもピストルでもいい、持って行く……そうすりゃきみを、殺してあげられる」  自分で口にしてみて、びっくりした。  へーえ、なるほどそんな手もあるんだ…… �口先だけなら、なんとでもいえるわ�  志摩子は強情だ。 「口先だけだと。馬鹿《ばか》いえ」  軍太もかっかしてきた。 「おれは死ぬほどきみが好きなんだ!」 �じゃあ死ねば?� 「へ」 �死ねばこっちの世界に来られるでしょ� 「う……ん。たしかにな」  へどもどする軍太を、志摩子はかさにかかって見下ろした。ことばのあやだけではなく、ふんわり宙に浮んだ彼女は、天井《てんじよう》に近い位置から、軍太をねめつけたのである。 �わかってるんなら、さっさと死ね。死んじゃえ軍太!�  そうだ……死のう。  志摩子にせっつかれるまでもなく、軍太はすでに思い定めていた。死んで、霊《れい》の世界にはいって、彼女と刺《さ》しちがえる……それが唯一確実な方法だ。 (それにしてもよ。おれ、どうやって死ねばいい?)  志摩子の言い草ではないが、いざ自分がその立場になってみると、おいそれと死ぬ手段がみつからない。  首吊《つ》り?  うーむ……なるほど洟垂《はなた》らしのションベン洩《も》らしの、なんて願い下げだなあ。  海へ飛びこむ?  残念なことに、かれは秀介をプールで鍛《きた》えているほどの河童《かつぱ》であった。  鉄道自殺?  いやだいやだ……軍太は子どものころ一度だけ轢死体《れきしたい》を見たことがある。そのときの肉と臓物の散乱した有様を、今でも夢《ゆめ》に見るほどだ。志摩子のために死ぬのなら、まだほかに道がありそうだ。  毒を飲む?  そんな気のきいた薬なぞ、持っていない。いっそフグを釣《つ》って、手料理で食べるか。あいにく軍太は、まだフグを釣ったことがなかった。  こんなとき、早池峰の麓《ふもと》なら簡単に毒キノコが採れるんだが、都会は不便だ。  ウイスキーをがぶ飲みして、急性アル中で頓死《とんし》するのもいいが……… (酒を買う金がない!)  やけのやん八、新宿へでもくりだしてやくざに喧嘩《けんか》をふっかけ、軽く刺《さ》し殺されるとしようか。あべこべに、おれが勝ったら困るなあ…… (ん? 待てよ)  いま軍太は、殺されることを考えた。たしかに、むりやり自殺するより殺される方が、他動的なだけにラクだ。それにしても……ついさっき、だれかが殺される話をしてたっけな。 「しめたっ」  軍太が、畳からはねあがった。 �なによ、軍太さん� 「まかせとけって。確実に死んでやる……きみのそばへ駈《か》けつけるからな」  時計を見て、かれはあわてた。 「いそごう! ぐずぐずしてると、間に合わなくなる」 �どこへ行くの� 「きまってら……『吉四六』だ。会ったことはないが、ジュン子というのは塔吉のあたらしい彼女《かのじよ》だろう……その女の身代りになって、おれが出かける。そして、学長たちの思惑《おもわく》通り殺される!」     4  果たしてジュン子が、いま「吉四六」にいるかどうかわからない。出おくれては困るので、 「志摩子さん。先に、奴《やつ》の店をのぞいてみてくれ」 �了解《りようかい》�  言下に志摩子の姿が消えた。あまりあっさりと消えたので、軍太は目をぱちくりさせたほどだ。 「彼女も幽霊《ゆうれい》のヴェテランになったなあ」  ほめられてよろこぶことでもなかろうが、次の瞬間《しゆんかん》、志摩子は正確に「吉四六」の店内に出現している。  店はまっ暗だ。カウンターの上には、食べ散らした丼《どんぶり》がふたつほうり出してあって、その右手にかかったカーテンから、細い光の糸が滲《にじ》み出ていた。 �奥にへやがあるのかしら�  カーテンを通りぬけるとすぐ、二階に通じる階段があった。明かりは二階から射《さ》しているのだ。 �良かった。まだ出かけていないらしいわ�  志摩子が見上げていると、だしぬけに足もとから、むくりと犬が起きあがった。怪訝《けげん》そうな表情で鼻をひくひくやっていた吉四六が、やがてうううとうなりはじめる。 �いやん。私は犬が嫌《きら》いなのよ!�  文字通り飛びあがった志摩子は、ことのついでに二階のへやへテレポートして、もう一度飛びあがった。 �きゃあ�  塔吉と、ジュン子とおぼしい少女が、オールヌードで抱《だ》き合っていた。すでに何合《なんごう》か戈《ほこ》をまじえたあとらしく、志摩子に向けた塔吉の背は、一面の汗《あせ》だ。組み敷《し》かれたジュン子は、正視できないポーズで、高々と揚《あ》げた両足の爪先《つまさき》を痙攣《けいれん》させている。体は小柄《こがら》だが、仰向《あおむ》けになっても崩《くず》れない胸のボリュームは、なかなかのものだ。 �でも、バストサイズは私とどっこいどっこいね�  両手で顔をおおいながらも、指のあいだからしっかりと観察している志摩子、幽霊《ゆうれい》になっても娘同士の競争心に衰《おとろ》えはないらしい。 「ジュン子。ぼつぼつ出番だぞ」  塔吉が声をかけたが、ジュン子はいやいやをするようにかぶりをふった。はずみに枕《まくら》もとの電話から送受器が外れた。東西大学へはここからかけたのだろう。 「もう少し」  仔猫《こねこ》のように甘えるジュン子を、塔吉はもてあまし気味だ。 「用をすませてからにしろ」 「なんの用」  とろんとした目をあける。 「先生方にお目通りするんだよ、百二十万」 「う……ん。面倒臭《めんどうくさ》いな」  ジュン子は両手をかかげて、塔吉をぎゅうと抱《だ》き寄せた。 「おい、いい加減にしてくれ……おくれたら元も子もねえや」 「学校と聞くと、遅刻《ちこく》したくなるのよお。条件反射だわ」  ジュン子がそういったとき、けたたましい鳴き声とともに、吉四六が駈《か》けあがってきた。見失った幽霊の匂《にお》いを、嗅《か》ぎつけたにちがいない。  立ちすくんだ志摩子に飛びかかろうとした吉四六は、その姿をつきぬけて、もろにジュン子のボインにぶつかってしまった。 「きゃっ。変態犬」  さすがに塔吉の体をはなしたジュン子は、ぺちゃんこになっていた枕を、吉四六めがけて投げつけた。  これ幸いと少女の肉体からすべり下りた塔吉は、にやにやしながら、犬をかばった。 「そういうな。お前に飛びつくってのは、牡《おす》として健全に育っている証拠《しようこ》さ」  塔吉の誤解をよそに、吉四六は、志摩子めがけて吠《ほ》えるのをやめない。  ほうほうの態《てい》で店の前へテレポートすると、サンダル履《ば》きの軍太が、小走りに路地から出てきたところだった。 �いたか�  と、軍太も通行人の手前、テレパシーによる会話に切り換える。 �いたわ……ふたりとも� �ジュン子ってのは、美人かい� �私ほどじゃないわよ� �機嫌《きげん》がよくないね� �大きなお世話� �ははあ�  軍太はにやにやした。だれもいないところで、ひとりで忍び笑いしている若者を、中年の主婦が気味わるそうににらんで通り過ぎた。  若者に精神病|患者《かんじや》急増、といった新聞記事でも読んだのだろう。 �さては奴《やつ》とジュン子のプライバシーをのぞいたな� �軍太さんものぞきたいんでしょう。幽霊《ゆうれい》になれば天下晴れてのぞけるわよ�  店のたたきで、足音がした。塔吉たちが二階から降りてきた様子だ。  あわてて軍太はポストのかげにしゃがみ、志摩子は空へ浮んだ。ここでまた吉四六に吠《ほ》えつかれてはたまらない。 「ねえ……連中の縄張《なわば》りへ、のこのこ乗りこんでいくなんて、ヤバいぜ」  ジュン子が、塔吉に文句をつけながら出てきた。 「大学を縄張りって奴があるか」 「おなじようなもんじゃないか。大学も暴力団も、勢力争いと跡目《あとめ》相続でもめてばっかだ」 「ヤバいってのは、ははあ……余計なことを知った奴は生かしちゃおけねえてんで、ぐさりってことか」 「ぐさりでもずぶりでもいいが、怪我《けが》したら割が合わないのは私だよ」 「エリートってな、口ばっかしで血を見るのはきれえなはずだが、毒食《くら》わば皿《さら》までってこともあるな、たしかに」 「感心してやがら」 「心配するな……だからおれがじかに行かず、お前を使いにやらせるんだ」  立ち話になったので、四本の足のあいだを往《い》ったり来たりしていた吉四六が、急に空を仰《あお》いで、うなりはじめた。  ポストのかげから、軍太がそっとのぞくと、店の看板の上まで志摩子が降りてきていたのだ。 �近づくな�  テレパシーを送って、手真似《てまね》であっちへ行けと合図したつもりだったが、志摩子はかん違《ちが》いした。 �なあに�  すーっと、立ったまますべり台で遊んでいるみたいに、ななめに滑空《かつくう》してきたから、吉四六の吠《ほ》える声が勢いづいた。 �わっ、来るなってのに!�  いくら夜の十時でも、吉四六がこっちへ走ってきたら、みつかってしまう。狼狽《ろうばい》した軍太は、四つン這《ば》いになってポストのかげから逃げ出した。  路地に回りこめば、もう塔吉たちから死角にはいる。  息を切らせて、軍太は、テレパシーで志摩子を叱《しか》りつけた。 �吉四六をなんとかしてくれ� �だって、あの犬、性に合わないのよ� �もしあいつが、ジュン子のボディガードになったらまずいんだ。だから、今の内だけきみの方へおびき寄せといてほしい� �気は進まないけど、やってみるわ�  ——そのあいだに、吉四六の店の前でも、塔吉とジュン子の会話がすすんでいる。 「学者たちが、お前を相手にどんな出ようをするか……そこんとこを確かめたくてね。いわばお前は踏絵《ふみえ》だよ」 「フミエなんて名前じゃないぞ」 「ちぇ。よっぽどお前、社会科の成績がわるかったらしいな。まあいいや、お前にもしものことがあれば、いつでも飛び出せるよう見張っててやる」 「なんだそうか。あんたがこっそりついてきてくれるのか……なら安心して、行ったげる」  わん! わん! わん!  ふいに吉四六が、けたたましい声を張りあげた。  一度は路地にはいろうとしたのが、くるりとUターンして、まっしぐらにこっちへ駈《か》けもどってきた——と思うと、あけっぱなしだった店の中へ飛びこんで、狂《くる》ったように走り回っている。 「吉四六、こら、静かにしろ」  おどろいた塔吉が、店にはいって犬を抱きすくめようとしたが、日ごろ飼い主に従順な吉四六が、今日に限って手がつけられない。 「なにしてんのよお。先に行くわよ」  しびれを切らせたジュン子が、ホットパンツからむきだした足を、颯爽《さつそう》と交叉《こうさ》させて路地へ曲った。——これが、駅に出る近道なのだ。  軍太は、アパートにはいる横丁の入口で待ちかまえていた。あたりに人気《ひとけ》がないのをたしかめた上で、一旦|彼女《かのじよ》をやり過してから声をかける。 「ジュン子さん」 「え?」  ふりむいた少女の鳩尾《みずおち》に拳《こぶし》を埋《う》めると、ジュン子は他愛もなく軍太の腕《うで》の中へ崩折《くずお》れた。  スポーツ万能、空手《からて》部にも籍《せき》を置いたことのある軍太ならではの、あざやかな誘拐《ゆうかい》だ。 (おれ……医者より暴行|魔《ま》の方が才能あるのかな)  いささか白けながら、ジュン子のわきのしたへ手をやって、 「仕様がないな……こんなに酔《よ》っちまって……しゃんとしろよ」  まことしやかに声をかけるあたり、満更《まんざら》頭もわるくない。惜《お》しいことに、大学入試向きに脳細胞《のうさいぼう》が配線されていないだけだ。  一時やんでいた雨が、また降り出したのか、それとも風のせいか、竹林が気をそろえてあたりにぱらぱらと雫《しずく》をふりまいた。     5  吉四六をさんざじらしておいてから、志摩子が店の壁《かべ》を通りぬけると、とたんに犬は憑《つ》きものが落ちたようにおとなしくなった。  愛犬を抱《かか》えあげて、塔吉は薄気味わるそうにあたりを眺めた。 「幽霊《ゆうれい》がそのへんにいやがったのかな」  だが、肝心《かんじん》なのは幽霊よりも金、と割り切ったとみえ、かれは急いで外へ飛び出した。 「ジュン子。……おい、ジュン子。ちぇっ、もう行っちまったのか」  ぼやく塔吉をよそに、志摩子はテレポートした。  気絶したジュン子を自分のへやにつれこんだ軍太がせっせとTシャツをぬがせ、ホットパンツをぬがせていた。志摩子にとってはもう目に馴染《なじ》んだ、白くて緊《し》まったジュン子の裸体《らたい》がバアとひろがった。 �?�  おどろいていると、軍太は自分の服をぬぎはじめた。  志摩子でなくても、次に現出するポルノシーンを想像したにちがいない。 �きゃーっ�  と叫《さけ》んだのか、 �こらーっ�  と怒鳴《どな》ったのか、志摩子は自分でもおぼえていない。塔吉ばかりか軍太まで、こんな女の子にトチ狂《くる》うなんて! 「あいてて」  超強力のテレパシーをぶつけられて、軍太は頭を無数のホチキスで綴《と》じられたような気がした。 「なんだ、きみか……痛《いて》えなあ……まるでおれ、孫悟空《そんごくう》になったみてえだ」 �痛いはずよ! ハレンチな真似をするんだもの、バチだわ� 「ハレンチ?」  きょとんとした軍太は、パンツ一枚でげらげら笑いだした。 「なにをカンちがいしてるんだ。おれはこれからこいつに化けなきゃならんのだよ」 �軍太さんが、この人に?� 「べつにこの女でなくてもいいが、テキは、ジュン子という女と談判することになってるんだろう」 �それは……そうだけど� 「そこへ男まるだしのおれが、のこのこ出かけたんじゃ、とりあってくれねえや」 �そうかしら……ね� 「あいにくおれは、女の着るもの持ってないから、暫時《ざんじ》拝借しようってわけ」  筋は通っているが、筋骨隆々《りゆうりゆう》の軍太がビキニを着ようとバタフライをつけようと、女に見えるはずがない。  もっとも本人は、その点についてさっぱり自覚|症状《しようじよう》がないとみえ、 「どっこいしょ……くそっ、やっぱり小せえかな」  ホットパンツを腰《こし》まで持ちあげようと、悪戦苦闘している。うまい工合に、軍太は逆三角形の体躯《たいく》で下半身がこぢんまりしていたし、ジュン子は安産型でヒップがたっぷりしていたから、パンツはどうやら破れずにすんだ。デザインより耐久力《たいきゆうりよく》を優先させたメーカーの良心に、拍手《はくしゆ》を送らねばなるまい。 �ねえ……いいたかないけど� 「なんだ」 �その脛毛《すねげ》……丸見えだわ� 「あ、これ」  軍太はびくともしない。 「剃刀《かみそり》で剃《そ》るつもりで、用意しといた」  こともなげにいってから、Tシャツに首を突っこんだ。 「ボインのつもりで、布を丸めてごまかそう」  現実には、Tシャツは軍太の胸のあたりで悲鳴をあげてしまった。 「ちい、破れた……安ものめ」  仕方なくぬごうとした軍太の目が、ジュン子の目とぶつかった。武士は轡《くつわ》の音に目をさますというが、女性は愛用のシャツの綻《ほころ》びる音で息を吹き返すようだ。 「…………」  軍太を見上げたジュン子の目が、まあるく、まんまるく見ひらかれた。きっと、フランケンシュタインが、シャツを餌食《えじき》にしているとでも思ったのだろう。  特別|誂《あつら》えの絶叫《ぜつきよう》が彼女の口を衝《つ》くより早く、軍太はその口へ破れたTシャツの端《はし》を押《お》しこんだ。俎板《まないた》に乗せられた人魚のように、精いっぱい暴れ回るジュン子を、軍太は片手で軽く押えつけ、片手で押入の襖《ふすま》をあけた。  ベルトだの寝間着のひもだの靴下《くつした》だの、悪臭|芬々《ふんぷん》の小物をロープ代りにして、雁字搦《がんじがら》めに縛《しば》りあげる。 「ちょっと匂《にお》うけど、勘弁《かんべん》だぞ」  Tシャツの上から煮染《にし》めたような手拭《てぬぐい》で丁寧《ていねい》に猿轡《さるぐつわ》をかけ、押入の中へほうりこんだ。 �可哀相《かわいそう》に�  さすがに志摩子は顔をしかめたが、軍太は平気なものだ。 「なに、おれだって子どもの時分、いたずらをする度に、縛られて押入へ押しこめられたもんさ。脅迫《きようはく》の片棒を担いだんだから、これくらい辛抱《しんぼう》しなくちゃあ」  時計を見た軍太は、どたどたと風呂場《ふろば》へ駈《か》けこんでいった。 「剃刀《かみそり》! お湯! 石鹸《せつけん》!」  志摩子は、ため息をついている。 �下半身はともかくとして、顔をどうやって女につくるつもりでしょう……� �あと十五分しかないわ。とても約束の時間に、東西大学まで辿《たど》り着けないわよ�  せかすのも気の毒と、遠慮《えんりよ》していた志摩子が、たまりかねて催促《さいそく》した。 「となりの奴《やつ》のバイクを借りる……いま、国へ帰ってるんだ」 �それならなんとかなるでしょうけど�  アパートから千歳船橋《ちとせふなばし》駅まで、経堂《きようどう》駅から東西大学までは、歩くとけっこう時間がかかる。バイクなら、いわば口の字の縦棒一本ぶんを走ればすむから、十五分あれば行けるだろう。 「お待たせしました」  ユニットバスからのっそりあらわれた、軍太の顔を見て、志摩子は腰《こし》を抜《ぬ》かしそうになった。 「夜目なら女に見えるんじゃない?」  にっこり笑うと、唇《くちびる》からはみ出したルージュが無気味に赤く、まるで吸血鬼《きゆうけつき》に弟子入りしたキング・コングだ。  化粧品《けしようひん》一式は、ジュン子が持っていたポシェットの中身を借用したものだが、無智もここまでくれば一種の武器であって、軍太は出たとこ勝負で顔にぬりたくったらしい。 �おそろしい……�  志摩子の発した間投詞を、かれは至極エゴイスティックに解釈した。 「そんなぞっとするほど、美《い》い女になったかな……さあ、出かけよう」  ジュン子のTシャツが猿轡《さるぐつわ》と化したので、やむなく軍太は自前のシャツを着こんでいる。両胸の小山のような隆起《りゆうき》は、接着剤でシャツの裏にくっつけた布屑《ぬのくず》だ。  長髪《ちようはつ》に櫛《くし》を入れ、ジュン子から強奪《ごうだつ》したヘアバンドをとりつけ、金属性のドーナツみたいに大きなイヤリングをぶら下げている。  志摩子は笑い死にしそうになったが、そんなことで死んでも生き返れっこないので、むりやり我慢《がまん》して先に立った。 「……まあ、むこうが声をかけるまでの変装だからな」  玄関《げんかん》にかかった小さな鏡を一瞥《いちべつ》して、軍太もいくらか自信をなくしたようだ。履《は》き物は、ジュン子の靴《くつ》では間に合いっこないから、これも自前のサンダルをつっかける。 「雨か」  外|廊下《ろうか》に突き出たプラスチックの波板が、派手な音を立てていた。 「本降りだなあ……この雨の中をバイクで飛ばした日にゃ、苦心のメイクはどうなるんだろう」  軍太はぼやいたが、なにお化粧なんてしようとしまいと大差ないのだ。 �急ぎましょう� 「おいきた」  階段を降りたところで、顔見知りの住人に出くわした。よせばよいのに、つい挨拶《あいさつ》してしまった。 「今晩は」 「こん……」  挨拶《あいさつ》を返そうとした相手の若奥《おく》さんは、絶句した。明日になれば、アパート中にゲイバーでアルバイトしている軍太の噂《うわさ》が広まることだろう。     6 「……あっ」  秀介が小さな声をあげた。  ホカ弁をおいしく平らげて、いよいよ本格的に机にむかおうとしたときである。 「しまった。ぼくとしたことが!」  猿《さる》も木から落ちるというが、天才にしてはなんともつまらぬ見落としをやったものだ。 (まさかすぐ行動にうつしはしないだろうけど……)  早まって、秀介がいいのこした「マイナスかけるマイナス」を、実行されたら取り返しがつかない。  なぜなら、あのときの秀介は、志摩子の死体がバラバラに処理されていることを、計算に入れていなかった!  五体満足な形で柩《ひつぎ》にはいり、あるいは土中に眠《ねむ》っていた死者の場合は、イエスやドラキュラの例をもちだすまでもなく、復活を予想することができる。  だが、志摩子のケースは特別だ。この時点で秀介は、まだ彼女の首・胴《どう》・両手・両足が、どう始末されたかを聞いていないが、当然かなりの距離《きより》をへだてて隠《かく》されたにきまっている。  それでは仮に彼女が蘇《よみがえ》ったとしても、魂《たましい》がこの世に宿るべき肉体がない。 (霊界で死ぬより先に、まず死体をみつけて、一か所に集めなくては!)  子どもべやを出た秀介は、電話に飛びついた。  つーん、つーんと、発信音はくり返されるが、だれも出る気配がない。 (軍太先生……どこへ行ったんだろう)  不安である。  送受器を耳にあてたまま、いっそまた家を抜け出そうかと考えていたとき、ママの声が先手を打った。 「秀ちゃん! お友達にお電話するなら、明日になさいね、お勉強の時間でしょ」  第四章 骨まで殺して     1 「……おそい」 「……おそい」 「……おそい!」  東西大学正門に近い三か所で、似たりよったりのせりふが聞えた。  最初の「おそい」は、門の前で傘《かさ》をさしている大坂《おおさか》部長。  次の「おそい」は、本館正面の車寄せで雨をよけながら、正門の様子を注目している東《あずま》学長たち。  第三の「おそい」は、大学の長い塀《へい》に沿って、ひとつぽつんと据《す》えつけられた電話ボックスから、やはり正門をうかがっている塔吉《とうきち》の声だった。 「くそ……あの非行少女め、どこをほっつき歩いてやがるんだ」  塔吉は口汚なく罵《ののし》った。まさか店のすぐ傍《そば》で、軍太に拉致《らち》されたとは知らないから、ひと足先に大学へ着いたものと思いきや、約束の時間を七分オーバーしても、まだ彼女《かのじよ》があらわれないので逆上気味だ。  といって、脅迫《きようはく》の主犯がのこのこ門灯の下へ顔をさらしに行くほど、とり乱してもいないし、勇気もなかった。  いかめしく格子《こうし》状に組まれた鉄の扉《とびら》の前で、雨に濡《ぬ》れそぼちながら、大坂部長もいらいらしている。  むこうが代理ならこっちも代理で十分ですと、学長に忠義面して見せたのはよかったが、これで相手の女が来なかったら、とんだ三枚目だ。  さりとて本館|玄関《げんかん》から、こっちを見ている学長たちの視線が、痛いほど背に刺《さ》さってくる。五分や十分、いや三十分でも待つほかないのだが、困ったことに大阪の靴《くつ》の中では、どうやら水虫が活動を開始したらしく、痒《かゆ》い。  初夏の陽気に、加えての雨だ。絶好の水虫|日和《びより》である。  本来なら今夜の会議はさっと切りあげて、新宿のカラオケバーへ行く予定だった。あそこなら常連だから、足が痒くなればかまわず靴がぬげる。  死体|遺棄《いき》なぞという後味のわるいビジネスの記憶をふり捨てて、演歌にポップスに、大いに歌いまくってやったものを……  それにしても、 (痒い!)  大坂は、神経質に体をよじらせた。 「あ……大坂先生が動きました」  那古屋《なごや》がわざわざ報告すると、 「動いたのは、見ていればわかります。問題は、女が来たかどうかということです」  と、仙田《せんだ》教授がたしなめた。 「まだのようですわ。左右をかわるがわる見ていらっしゃるから」  都《みやこ》の観察は、さすがこまかい。 「もう十分過ぎました。……来ませんなあ、女は」  北見《きたみ》が嘆息《たんそく》した。 「いたずら電話だったんじゃありませんか」 「そんなことはないだろう。第一、いたずらをしてなんの得《とく》があるのかね」  東が問い返す。 「誘拐《ゆうかい》事件で、身代金の受け渡《わた》しにいろいろと詐術《さじゆつ》を使いますな。あのデンで、たっぷり我々をじらしておいてから、おもむろに真打ちの取引条件を……」 「神経戦ですか」 「考えられますな、たしかに」  ついに東が決断を下した。 「約束《やくそく》を破ったのはむこうだ。これ以上待つ必要をみとめん。ひきあげよう」 「では、大坂先生に申し上げてきますわ」  都が小ぶりな傘《かさ》をひろげて、車寄せを出ようとしたとき、バイクのエンジン音が近づいてきた。 (来た)  大坂は緊張《きんちよう》した。  といってもこの大学前の通りは、日中ならかなりの通行量がある。バイクのぬしが、問題の使いかどうか、即断《そくだん》はできなかった。 (男か女か)  眸《ひとみ》をこらしながら、大坂は右足の甲《こう》を左足の踵《かかと》でこすった。……それにつけても、なんという痒《かゆ》さだ。  バイクのライトが、夜目にもくっきりと白い雨脚《あまあし》を染めあげている。  ハンドルをつかんでいるのは、かなり大柄な人間のようだ。すると、男か……だがライトがなにかに反射して、ちらとライダーの顔の下半分が見えた。  えらの張った顎《あご》と、毒々しいような色彩《しきさい》のルージュ。 (女だ)  大坂がそう思ったとき、バイクのエンジンの音が消えた。停車するつもりらしい。これが待ち人と確信したとき、大坂は、こみあげる怒《いか》りを抑《おさ》えかねて、思わず、 「かゆい!」  と、怒鳴《どな》った。  もちろんすぐに、大あわてで訂正《ていせい》した。 「おそい!」  バイクが停止し、ライトが消えると、あとはやけに雨の音が耳についた。バイクを降りた女は、だまって立っている。Tシャツにホットパンツの軽装だから、ドーバー海峡《かいきよう》を泳ぎ渡《わた》ってきたみたいに、全身ぐしょ濡《ぬ》れだ。  それにしてもこの女、大きな図体である。ふと大坂は、どこかの女子バスケットボールチームが、遠征資金|稼《かせ》ぎに脅迫《きようはく》をはじめたのかとさえ思った。門灯がななめ後ろから光を送っているので、顔はよく見えないが、相当なブスだ。  それでもまあ、揺《ゆ》れている大きめのイヤリングが、色っぽくないこともない……と、中年男の例に洩《も》れず、大坂部長も、若い女には点が甘《あま》かった。 「きみが、先ほど電話をくれた人の使いだね。秋田ジュン子くん」 「…………」  女——のつもりで、軍太はひょいとうなずいてみせた。 「ゆっくり話したいと思っていた。私は、東学長代理の、大坂です」  軍太が小首をかしげたのを見て、大坂はつけくわえた。 「東先生なら、あちらでお待ちだ……はいりたまえ」  小さな通用門だけ、解錠《かいじよう》されていた。大坂に促《うなが》された軍太は、ひょいとバイクを小脇《こわき》にかかえて、門をくぐった。 �女傑《じよけつ》ぶりを見せたから、大坂部長目を丸くしてるわよ�  と、おもしろそうに志摩子が知らせた。いうまでもなく、軍太以外に見えない彼女、軍太のバイクとスピードをそろえて、ふたたび東西大学へあらわれていたのだ。 (なんだ、あれは……)  大坂と軍太の姿が門に消えても、電話ボックスの中の塔吉は、唖然《あぜん》としていた。 (ジュン子がバイクで来るはずはねえのに……あの男とも女ともつかないのが、どうしてジュン子と入れ代ったんだ)  見当もつかなかったが、こうしてはいられない。  女の正体と、学長たちがどう出るか、両方一度にたしかめてやれと、ボックスをすべり出る。  門扉《もんぴ》の格子から校内をのぞくと、学長たちが女をとり巻いたところだった。 「女」がハンケチで唇《くちびる》を拭《ふ》き、イヤリングやヘアバンドを外すのが見えた。 「きみは!」  驚愕《きようがく》の叫《さけ》びをあげたのは、東らしい。女秘書が制止のゼスチュアをした。  叫びたいのは、のぞいていた塔吉もご同様だ。 (軍太じゃねえか!)  してみると、おれが学長を脅迫《きようはく》したことを、早くも気がついたらしい。体ばかりでかくても、悪智恵《わるぢえ》ならおれの方がずっと上と思いこんでいただけに、塔吉は惑乱《わくらん》した。  幽霊《ゆうれい》がいるらしいことは知っていても、その志摩子が、軍太の目となり耳として活躍《かつやく》していることまでは知らない塔吉だから、舌をまいた。 (あの野郎……なかなかやるぜ)  どう話がすすんだものか、東たちと肩《かた》を並べて、軍太は中庭の方へ歩きだした。 (下手すると、おいしいとこを、のこらず軍太にやられちまう)  そうはさせねえと、塔吉は、扉《とびら》の格子に足をかけた。通用門はもうロックされている。招かれざる客の塔吉だから、鉄扉を乗り越《こ》えるしか方法がなかった。  目の下で、軍太が乗ってきたバイクが、雨に打たれている。     2  脅迫者の正体が、息子の家庭教師とわかったときの、東学長のおどろきようは見ものだった。  世にも憎々《にくにく》しげに、素顔にかえった軍太をにらみすえたが、そこは医者会長ともなれば老獪《ろうかい》な古狸《ふるだぬき》である。じきにこわばった顔の筋肉をゆるませて、 「なるほど。岩手くんだったな。……きみがそんなにユーモリストとは思わなんだ」 「おれが、女の恰好《かつこう》してきたからですか」 「その意味もある。……いやむしろ、あの趣向《しゆこう》はブラックユーモアと称すべきだろうがね。眼目は、きみが私を殺人犯と呼ばわったことだ」 「へへえ」 「いかなる名医であろうと、百パーセント患者《かんじや》を救った医者はいない。その点では、私たちは遺憾《いかん》ながら殺人者だ」  話をそらされそうになった軍太が、腹を立ててみせた。 「その点もこの点もあるもんか。どこから見たって、東先生、あんたは人殺しだ!」 「まあ、まあ。ここは学園ですよ……大きな声を出すところではない」  と、仙田教授が猫撫《ねこな》で声で迫《せま》る。 「ガードマンの耳にはいったら、きみも工合がわるいんじゃないかね。雨に降られて、風邪《かぜ》をひいてはいかん……へやへはいろう」  大坂部長は、この場のイニシャティブをとろうとするかのように、なれなれしく軍太の肩《かた》を抱《だ》いた。もっとも、軍太の方が背が高いから、後ろから見ると大坂は宙吊《ちゆうづ》りにされたようだ。 「どこへでも行くけどね」  軍太はのそのそと、中庭へむかって歩きだした。  この際、なにがなんでも東たちを怒《おこ》らせて、自分を殺すようしむけたいのである……しかも、脅迫《きようはく》を思いたった男がべつにいることは、口を拭《ぬぐ》っていなければならない。 �そうよ、軍太さん�  と、軍太にぴったり寄り添《そ》う形で、志摩子がささやいた。 �もしそのことを悟《さと》られたら、あなた拷問《ごうもん》にかけられちゃうわよ�  軍太はマゾヒストじゃないから、そんなものは願い下げだ。望むところはただひとつ、かれらの手で、迅速《じんそく》に快適に殺してほしいのである。  軍太にかまけていたために、彼女は周囲へ目を配ることを忘れていた。……従って、中庭にはいった一同を追って、学園内に進入した塔吉に気づかなかった。  軍太の案内を大坂にまかせて、東はわざと足をおくらせ、都のそばへ貼《は》りついた。こちらは幽霊《ゆうれい》じゃないので、テレパシーに頼《たよ》ることができない。 「どうやら脅迫者は、あの男ひとりらしいね」 「ええ。……でも、へんですわね」 「なにか気になるのか」 「ひとりだったら、なぜ女を使いに出すといったんでしょう。どうせ自分が出かけるのに、わざわざ回りくどいことをしたのかしら」 「犯罪者の心理は、我々ノーマルな人間にはわからんものだよ」  東は、自分が犯罪者であることを、きれいさっぱり忘れていた。 「それに、近ごろふえたというじゃないか……女装《じよそう》願望者が。あの男の精神状態はゆがんでおるのだ」  気の毒に、軍太は変態にされてしまった。 「でしたら、先生」  都の声が、錐《きり》のように細くなる。 「殺しましょう」 「うむ」  東の声がのどにつかえた。 「でもその前に……ほかに先生の秘密を知っている者がいないか……もうひとつ、どうして知ることができたのか……たしかめておかないと」 「わかってます」  東がうなずくと、肩《かた》にかかった雨がきらりと光った。 「心を鬼《おに》になすってください」 「あ……ああ」  幼児のようにおぼつかない返答だ。都の白い手がそっとのびて、東の手をつかんでいる。  長い廊下《ろうか》をみちびかれて、軍太は学長室へ招き入れられた。本来ならとなりの応接間へ入れたいところだが、ポルターガイストの嵐《あらし》のために、カーテンは垂れ下り、床板《ゆかいた》は剥《は》がされ、惨澹《さんたん》たる有様になっていたのだ。  クッションのよくきいた肱掛椅子《ひじかけいす》に体を埋《う》めて、軍太はひどく居心地がわるそうだった。小人がサッカーをやれそうなほど広いデスクのかなたに、東がゆったりと腰《こし》を下ろす。  軍太のとなりに大坂が坐《すわ》り、仙田、那古屋、北見は、目立たぬように軍太の後ろに立って、退路を遮断《しやだん》した。  都が馬鹿丁寧《ばかていねい》な手つきで、紅茶を配る。  軍太は、もじもじしていた。 (こいつら、猫《ねこ》をかぶっていねえで、さっさと殺せ!) 「ところで」  東が、軍太をみつめた。  学長と浪人の貫禄《かんろく》のちがいは致命的《ちめいてき》で、軍太はつい目を伏《ふ》せようとして、志摩子に叱《しか》られた。 �気おくれしちゃおかしいわよ。あなたは立派な脅迫《きようはく》者なんだから� �うん、そうだったな�  あわてて顔をあげ、東をにらみかえした。四つの目が火花を散らす。——東はおもむろに笑顔を見せたが、目は依然《いぜん》として笑っていない。 「この場になって言を左右するのは、お互い時間の不経済だからな。率直に発言しあおうじゃないか」 「けっこうです……おれだって、忙《いそが》しい身なんだ」 「では念のため、聞いておきたい」  学長は、都をちらと見やった。 「どのようなルートで、私の秘密を探りだしたのかね」 「秘密?」  首をかしげた軍太は、すぐに破顔した。 「ああ……人殺しのことか」 「そのことばは、つつしんでほしいのだが……」  大坂部長が、おだやかにいった。 「つつしもうとだらけようと、人殺しは人殺しだ。それとも暴行|未遂《みすい》もつけくわえますかね」  眉《まゆ》を八の字に寄せた東は、仕方なさそうにいった。 「その問題を、これ以上追うのはやめておこう。それより、私の質問に答えてもらいたい」 「なぜ」 「わからんかな。……今ここで、私がきみに要求の金をプレゼントしたとしても、おなじルートで、べつの悪党が、私の秘密を手に入れれば、きみに渡《わた》したぶんは無駄金《むだがね》となるからだ」 「なるほど」  なるほどとはいったが、学長になんと説明すればよいか、軍太は迷った。 �志摩子さん、どうしよう……幽霊《ゆうれい》のあんたから聞かされたといっても、この連中は本気にしないぜ� �私のノートを読んだといったら� �それで?�  みじかい時間に、豊富な情報量を交換《こうかん》できるところが、テレパシー通信の利点だ。軍太は、志摩子の幽霊からいくつかのアイデアを授かったが、その間現実の世界では、まばたきするほどの時間しか経過していない。 「えーと、その……なんだ。おれが学長先生の犯行に気づいたのは、殺された彼女のノートを読んだからだ」 「ノートというと」 �大学でのさまざまな印象を書き留めておいたものよ� 「つまり、大学でのいろんな印象をメモしたものだ」 「なぜそれに、私の犯行が……いっとくが私は計画的に久米くんを手にかけたのではないぞ」 「ええ、それについてはだな」 �かねてから学長先生は、私に色目を使っていた……いつか抱《だ》きすくめられるのじゃないか、犯されるのじゃないか。そう考えて不安になっていた。そんなメモがのこっていたといってやってよ� 「かねてから学長は、私をいやらしい目で見ていた。いつかきっと襲《おそ》われ、花の貞操《ていそう》をふみにじられるだろうと、はらはらしていた。そんなメモが、ノートに書きつけてありましてね」  学長の横に立っていた都が、心もち眉《まゆ》を吊《つ》りあげたから、軍太はおもしろくなってきた。  もっとエスカレートしてやろう。 「先生の目は、授業中もずっと、私の肉体を犯しつづけていました、とメモにあったな。  真理を求める眸《ひとみ》の奥《おく》に、とめどもない中年の情欲の火が、ちろちろと燃えさかっていたのです!  医学のヒューマニズムを説いたおなじ唇《くちびる》が、私の視界にグロテスクな軟体《なんたい》動物みたいに巨大化して、迫《せま》ろうとしているのです!」 �ちょっと、軍太さん�  志摩子が止めようとした。 �そんなことまで、いってないわよ私� 「はい、私は確信しました。学長先生の目が、鼻が、唇が、私を求めている……でも私には、岩手軍太という恋人がいます……」 �こら、軍太�  志摩子はあわてた。 �会ったばかりのあなたが、ノートに出るなんて�  軍太はわれ関せずとつづけた。 「もし学長先生が、甘《あま》いことばで近づき、ぶあつい財布をひけらかしても、私は拒否します。私の愛のために……軍太さんのために」 �インチキ!�  いくら志摩子が抗議しても、たったひとりテレパシーの届く軍太に無視されたのでは、意味をなさない。  軍太は、にやりとした。 「……おれと彼女は、そんな関係にありましてね。だから、いつもノートを貸してもらっていたんです」 「久米くんが私をそのようにとらえていたとは、おどろくべきことだ」  色魔《しきま》あつかいを受けて、自信を喪失《そうしつ》した学長は、沈痛《ちんつう》な面持で答えた。 「だからといって、私が彼女を殺したことにはならんだろう」 「まだこの先があるんです。ノートに曰《いわ》く、それでもしつこい学長先生のことだから、私が拒否《きよひ》すれば、頭にかっと血がのぼって、私をしめ殺すにちがいない」 「うーむ……」  殺人まで予想していたとは、調子が良すぎるが、事実その通りの事件が発生したのだ……文句のつけようがない。 「だから軍太さん。万一私の姿が見えなかったら、それは学長先生に殺されたのかもしれなくてよ」  まだ女装《じよそう》しているみたいに、軍太はせりふでしなをつくった。 「……というノートを読んでいたおれとしては、ゆうべ彼女が家に帰らなかったことを知ると、先生があやしい! と思ったのです」 「ではきみは、たびたび久米くんの下宿に出かけていたのか」 「もちろん、恋人《こいびと》同士ですからね」  軍太はうれしそうに、鼻の穴をひろげた。 「そうかねえ……秀介は、こんどの家庭教師は、およそ女に縁《えん》がないと笑っていたようだが」  秀介め! 張り倒《たお》してやる!  と口には出さず、軍太はゆとりの笑いで対抗した。 「能ある鷹《たか》はなんとかといいまして、彼女くらいの恋人をもつ男は、軽々しくもてたもてないの井戸端《いどばた》会議にくわわらんのです」 「久米くんについても、浮いた噂《うわさ》ひとつありませんでしたが」  仙田教授が首をかしげると、大坂部長はわけ知り顔に、 「いまの若い者なら、恋人の二人や三人いるだろうよ」 「でもね……久米くんは、どこに住んでいらしたの」  なにを思ってか、都が直接軍太にぶつけてきた。 「え? 志摩子ですか。彼女は、そりゃあ……」  軍太は詰《つ》まった。幽霊《ゆうれい》になってから知り合った恋人の、生前のすみかなんて知る由もない。 �三軒茶屋《さんげんぢやや》よ�  あぶないと見て、志摩子が助け舟を出した。  こんな安全なカンニングなら、テストは毎日だっていい。 「三軒茶屋でした」 「たしか、マンション形式だったわね」 「はあ」  また返事があやふやになる。 「女子学生専用のワンルームマンションで、男と名がつくものは、父親でもシャットアウトするという評判ですよ」 「そ、そうですそうです」 「そんな大したマンションに、あなたどうやって出入りしたんですか」 「あ……たしかに」  志摩子が、急いで智恵《ちえ》を貸してくれた。 �マンションの一階にティーラウンジがあるわ。そこで会ったことにしましょう� 「ええ、マンションの一階にティーラウンジがありまして、そこで会ったことにします……?」  断言したものの、表現が不穏当《ふおんとう》だった。 「もとへ! 実際に、そこで志摩子さんと会っていました」  都は納得《なつとく》できない様子だが、さりとて突っこむ隙《すき》もなかった。 「あてずっぽもいいとこだ……まさか、それだけのことで学長先生を告発し、我々を連坐《れんざ》させようというのか。……おいきみ、岩手といったな」  大坂が、厚みのある体を、軍太に向けた。 「はあ、岩手軍太です」 「先ほどの電話では、ついきみの口車に乗せられて、学長先生もうかうか罪をみとめられてしまったが、そうはいかんぞ」 「いきませんか」 「きみは久米くんの恋人気取りだが、彼女にはまだほかに好きな男がいて、きみに内緒でグアムかハワイへ行ったということも考えられる。だから、久米くんはみつからんのだ!」  大坂は威丈高《いたけだか》だ。  本音を探れば、軍太を殺したくないに決まっていた。すでに手を血で汚している学長とちがって、大坂以下の教授陣は単に死体|損壊《そんかい》と遺棄《いき》の罪にすぎない。これ以上泥沼《どろぬま》にはまるのは、ご免|蒙《こうむ》りたい大坂部長だった。 �このままでは、あなた殺されずにすんじゃうわよ�  と、志摩子は早くも形勢を察している。 �どっこいその手は食わねえ�  軍太にしてみれば、どうあっても殺してもらいたい。ここはハッタリをかませる必要があった。 「甘《あま》い、甘い」  軍太は、ワルぶって笑ってみせた。頑丈《がんじよう》な肱掛《ひじかけ》椅子がぎちぎちと鳴った。 「ピンときたおれは、ゆうべの内にこの大学へ忍びこんだ」 「うそをつけ!」  一座は顔色を変えた。 「うそだと思うなら、それでいいさ……だが、それならなぜおれは、つぎの事実を知っているんだろうな。  A、大坂部長先生は、わが家に重たげなバッグを提げて帰った……西瓜《すいか》がはいっているような、ぷっくりふくらんだバッグをね。  B、仙田教授は、ロッカーから妙《みよう》なものを取り出した。それはよく見ると、ビニール製のウイスキーボトルであった。  C、那古屋助教授は、その夜車を運転して世田谷にある某《ぼう》マンションの工事現場へむかった。  D、北見講師は、顔見知りの婦人に電話をかけた。曰《いわ》く、『ライオンくんは、元気ですか』ことわっておくけど、婦人が西武ファンというわけじゃない」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」  四人が四人、青くなっていた。  やおら北見がうめいた。 「うそだ!」 「他の先生方のご意見は?」  軍太は、悪党役の演技をたのしんでいた。 「いかにしておれは、秘密を知ることができたか。正解と思うものにマルをつけよ。  1、すべて口からでまかせ。  2、星占いで的中させた。  3、当夜、現場近くにひそんでいた。  ……どうです、先生たち」  傲岸不遜《ごうがんふそん》の大坂が、一語も発しないのだから、あとは推して知るべしといってよかった。  最初に屈伏《くつぷく》したのが、仙田教授だった。  かれは顔をおおって、切れ切れに叫《さけ》んだ。 「……悠子《ゆうこ》に、申し訳ない」  那古屋と北見は、救いを求めるように大坂を見た。  ——大坂はかれらから目をそらして、東と都を見た。かすかに唇《くちびる》をゆがませて、そのあいだからカニみたいに泡《あわ》を吹き出している。ひくい声で演歌を口ずさんでいたのだ。 「やーるーと思えばどこまーでーやるさ……」  そのつもりで見なければわからない、ぼんやりした笑《え》みが、都の石膏《せつこう》めいた顔にひろがっている。 �あなたを殺すことが、決まったわ�  志摩子が、冷静な観察の結果を報告した。 �そうらしいな� �学長先生と秘書は、ひやひやしていたはずよ。一蓮托生《いちれんたくしよう》、みんなを殺人犯の仲間にひきずりこみたかったんだから� �よかった………�  と、軍太は吐息《といき》をついた。 �これであとは、うまくおれを殺してくれればいいが�  心配無用といっていいだろう。学長先生自らおっしゃったように、ヴェテランの医者なら、だれだって殺しは慣れっこである。 �さっきの会議で、秘書がブランデーをサービスしたのも、みんなをいい気分にさせて、連帯感を盛《も》りあげたかったんだわ� �だから酔《よ》いにまぎれて、大坂たちも簡単に殺人計画に乗ったわけだな�  欧米には見られない酒席でのビジネス、料亭《りようてい》政治、むつかしいことをいわずにまあ一杯《いつぱい》やりましょう、まあまあまあ……のやり方で、グループによる殺しまで決まるのかと思うとふしぎな気もするが、公害薬害|欠陥《けつかん》製品もろもろが原因で、現実に大勢の人間が組織の手で殺されているというのに、ひとりやふたりを消すことに、いちいち良心と格闘《かくとう》していたら、この世の中でエリートはつとまらないのだろう。  果たして都は、一同の前で冷えきった紅茶に目をとめると、 「やはりお酒の方がよかったかしら。学長先生、ボトルをあけさせていただきますわ」  返事も待たずに、応接間へはいっていった。  ポルターガイストに負けず、いくつか生きのこった瓶《びん》があるらしい。 「きわめて率直だった」  と、東は軍太の発言を評価した。 「そこまできみが事実をつかんでいたとはね……いさぎよくかぶとをぬごう」 「学長にそういわれると、くすぐったいです……なんたっておれ、今年で三回めですから……東西大学落っこちたのが」 「うん。きみは本学医学部を志望しとったんだな」 「はあ、おやじの遺言で」 「電話でうかがったところによると、きみの希望は初回の払込みが百二十万」 「あと毎月、二十万ずつのローンでいいです」  サラ金の取立てに来たようで、凄《すご》みに欠けるが、責任はケチくさい条件をもちだした塔吉にある。 「どうかね、岩手くん」  東京一郎は、温顔にシンニュウをかけたようなあたたかい笑みで、軍太を包んだ。 「来年度、特待生として本学はきみを迎えたい……その付加価値をつけて、契約《けいやく》を成立させようじゃないか」 「ありがたき幸せですな」  軍太は、ふてぶてしく足を組んだ。 「その代り、念を押すまでもなかろうが、きみはこの件について、絶対に」 「沈黙《ちんもく》を守ります」  法廷《ほうてい》の宣誓《せんせい》みたいに片手をあげると、北見が胡散臭《うさんくさ》そうにいった。 「だがあんたは、恋人《こいびと》を殺された……それでも腹を立てないのか」 「死んじまえば、もう恋人じゃないですよ。生きてるから抱けるんです」  軍太はうそぶいた。 「金さえありゃ、女なんかよりどりみどりでさ」 �というのは、うそうそ�  一方でかれは、テレパシーで志摩子に訂正《ていせい》を申し入れている。 �死んでいたってきみが好き、たとえ金があっても女はきみひとり� �ぷ�  志摩子が吹きだした。 �あわてて注釈つけなくても、あなたの深層意識をとっくに読み取ってるわ� �それならいいが�  幽霊《ゆうれい》を恋人にするのは、気骨が折れるものだ。  そこへ、都がワインのボトルとグラスをいくつも運んできた。 「お待たせしました」 �あの中に、毒を入れたようね� �そんなことだと思った………毒なら、ここは医学部だもの、売るほどあるからなあ�     3 「では、脅迫者岩手軍太くんの健康を祈って、乾盃《かんぱい》するとしよう」  ワインを満たしたグラスが一同にゆき渡《わた》ると、東が皮肉っぽい口調で音頭をとった。 「殺人犯東学長先生のひきいる東西大学が、ますます発展しますように」  負けじと軍太も応じた。こういうやりとりではひけをとらないかれが、正念場の入試となると、いつもおくれをとるのはふしぎである。 「しょせんおれは人間だ……点取りマシンにゃなれねえんだ」  いつか秀介にむかって、啖呵《たんか》を切ったことがあったが、たしかにそうかもしれない。  軍太は、グラスに口をつけようとして——ほんの一瞬、その手を止めて中の液体をのぞきこんだ。  毒……  この血のように赤いワインに、おれを殺す薬がまざっているんだな。  そう考えると、むこう見ずな軍太も、いくばくかの感慨《かんがい》にとらえられたのである。 「なにを見ているのかね」  すでにワインを一口のどへ通した東が、聞いた。 「色を見てるんです。きれいだなあ」  と、軍太はごまかした。 「これがワインカラーというのか。ワインがワインカラーなのは、あたり前だけど」  改めて口に持っていく軍太に、都が声をかけた。 「あら、ごめんなさい……そのグラス、汚《よご》れがついているわ。私のと代えてくださいな」  否《いな》やをいわせず、いままさに飲もうとしていた都のグラスが、すっと軍太の前にさし出された。 「はあ、どうも」  ふふん、これが手か。  乾盃《かんぱい》前にいくら目を皿《さら》にして、自分のグラスを調べたって、異常はありやしない。呷《あお》る寸前に段取りよく取り替《か》えられては、ためらうひまもあるまい。 �グラスに毒がぬりつけてあるのよ�  志摩子が、不安げな口調で説明した。殺されるために来た軍太なのに、いざとなるとかれの身を案じて、止めようか止めまいか迷っている気配が感じられ、かえって軍太はふるいたった。 �矢でも鉄砲《てつぽう》でも持ってこい�  ぐいっと、ただひと口であけてしまった。 �気のせいか、たまに飲むワインより甘口《あまくち》だぜ�  飲みっぷりの良さに、都はあわてた。死なれる前に、まだ聞くことがのこっている。そう考えて、速効性の毒は避《さ》けたのに、こうあっさりとグラスを干されては、軍太の命もあとわずかだ。 「ね、お聞きしたいんだけど」 「なんです」  答えておやと思った。舌に痺《しび》れが感じられる。ほんの少し、呂律《ろれつ》が回らなかった。しめた、これなら楽に、ゆっくり、死んでゆけそうだ。 「あなたのほかに……学長先生の……秘密……知ってる……人……いない……の」  都のことばが、へんに間のびして聞えてくる。  軍太は首をふった。  なんだか首がガクガクして、こわれかかった人形に、自分が変身したような気分だ…… 「い……な……い」 「だが……例の……ノー……ト……は」  東がゆらゆらと、軍太の前へ首を突《つ》きだした。ふだんのかれのととのったマスクが、海中で眺《なが》めているみたいに、ゆがんで見える。  どこかで見たおぼえがあるぞ……  そうだ……  東京へ来て間も……なく……  後楽園《こうらくえん》遊園地で……見……た……  鏡……の……へや…… 「ノート……を……読んで……気が……つく……者……が……いる……の……で……は……」  東がしつこくくりかえしている。  うる……せえ……な……  軍太は、全力をふるって、首をぎくしゃく振《ふ》ってみせた。 「あ……れ……は……う……そ……」 「うそ?」 「なんですって」  混乱した顔を見合せている、学長と教授たち。  なんだ……なんだ……  どいつも……こい……つも……間のび……して……見えや……がる。  ピッカピカの……研究室に……ふんぞりかえって……白衣に身……を……固めた……医局の……家来を……ひきつれ……てよ。  みがきぬか……れた……病院の廊《ろう》……下《か》を……大名行列……してる……ときには……どえらく立派な……先生だが…… 「おい、岩手くん!」 「岩手さん!」  学長と都が、懸命《けんめい》に軍太をゆすっていた。 「どうもきみは、信用できん」  おきやがれ……信用でき……ないから……毒……飲ませたん……だろ…… 「ほんとのことをいえ! たしかに、きみのほかに、秘密を知る者はおらんのだな!」 「たしかな話をしてくれれば、解毒剤あげますよ」  へ……とうとう……本……性……あ……ら……わ……し……た…… 「さもないと、きみは死ぬんだ」 「いいのか、死んでも!」 「東西大学にはいれないんだぞ」 「お父さんにそむくことになる!」  教授たちは、目の前で薬殺されようとしている軍太を、見るに忍びなかったのだろう。なんだか滅茶《めちや》苦茶なことばを並《なら》べながら、軍太をゆすった。  ふいに——  まったくふいに、  その岩のような体が、ぬうと立ち上った。 「わっ」 「ど、毒を飲ませたんじゃなかったのか!」 「こんなはず、ありません!」  都が頬《ほお》をひきつらせた。  事実は、軍太けんは死に瀕《ひん》している。ただ、断末|魔《ま》の患者《かんじや》が一時的に小康状態をとりもどすように、軍太はいま、消えようとする命の灯をかきたてて、最後の力をふりしぼり立ちはだかったのである。 「う……おう!」  なににむかってとも知らず、かれは咆哮《ほうこう》した。  上半身をおおう筋肉が、むくむくと盛《も》りあがり、軍太はたくましい両腕《うで》をふりかざした。  ほとんど闇《やみ》にとざされようとしているかれの脳髄《のうずい》に、雷電《らいでん》がひらめいた。動物的な怒《いか》りが、鍛《きた》えられた軍太の肉体をあやつって、一歩、二歩、三歩……学長と教授陣に詰《つ》めよらせた。  なんて奴《やつ》ら……それでも……医……者か! �軍太さん! 軍太さん! 軍太さん!�  だれだろう……耳におぼえのある、なつかしい声。  だがかれは、その声をふりきって、学長にむかって猿臂《えんぴ》をのばした。 「ぎゃーっ」  学長の口から、名状し難い悲鳴があがった。  ……それまでだった。  生命の灯《ひ》は、完璧《かんぺき》に燃えつきた。  しばらく、無念そうに立っていた軍太の巨体《きよたい》がぐらりと傾《かたむ》くと、地ひびきたてて、床《ゆか》へ大の字にたたきつけられた。 「……死んだ」  おそるおそる近づいた大坂が、瞳孔《どうこう》と呼吸、脈搏《みやくはく》をたしかめた上で、臨終の宣告を下した。  だれともなく、ほうという吐息《といき》が複数で聞えた。 「致死量たっぷりのつもりでしたが……」  都が額の汗をぬぐって、いいわけがましくつけくわえる。 「体力があったんですね、この人」 「田舎《いなか》者だからな」  腹立たしく東がいい捨てたときだ。ガチャンという音が、窓ごしに聞えた。     4 「だれだ!」  一座のすべてが、愕然《がくぜん》とふりむいている。  北見が、とっさに窓へ飛びつき、カーテンをひきあけた。 「逃《に》げていく……男だ!」  おどろいたのは、教授たちだけではない。空中にただよって、軍太の霊《れい》の到来《とうらい》を待ちこがれていた志摩子もおなじだ。  一気に彼女は、逃げる男の前へテレポートした。 �『吉四六《きつちよむ》』の塔吉!�  いつから窓の外で様子をうかがっていたのだろう……雨を衝《つ》いて、ころがるように逃げる。  逃げるのも無理はない。かれは東学長以下の決定的な犯行シーンを目撃してしまった。それなりに智恵《ちえ》は回っても、度胸は水準に及ばぬ小悪党だ。軍太の死にざまに恐《おそ》れをなしたとたん、窓の下で雨にぬれていた、割れたガラスを踏《ふ》み破ったのである……それは、数時間前に志摩子のおこした騒霊《そうれい》現象で、戸外へほうり出されていたものだった。 「追いかけろ!」  学長がわめいた。——こうなると、名士の仮面はふっとんで、マフィアのボスに近い形相《ぎようそう》だ。 「畜生《ちくしよう》」 「やっちまえ」  ボスがボスなら、子分も子分——失礼、教授たちである。  目を血走らせて、北見が、つづいて仙田が、窓を乗り越《こ》える。  足に自信のある北見が、猛然《もうぜん》とダッシュした。相手は、花壇《かだん》の泥《どろ》に足をとられて、つんのめった様子である。 (しめた)  ぐいぐいと距離《きより》をちぢめたのはよかったが、門際にたどりついた男は、軍太がのこしていったバイクに手をかけた。  通用門の掛金を外し、バイクを表へひきだそうとしているのを見て、北見はあせった。  なに者かは知らないが、このまま交番へかけこまれたらおしまいである。  そのとき、背後でかん高いエンジンの音が聞えた。ふりむくと、仙田が自慢のスポーツカー、真紅《しんく》にぬられたプレリュードだ。 「早く!」  仙田にいわれるまでもなく、北見は力まかせに鉄扉《てつぴ》をひらいている。  北見が助手席にころげこむと、仙田はものもいわず、正門を走りぬけた。 「右だ」  横なぐりの雨に煙っていたが、たしかにバイクの尾灯が見えた。  ひと思いにアクセルを踏《ふ》みこむと、排気量一八〇〇ccが吼《ほ》え猛《たけ》った。……いつもは愛妻を乗せて、静々と前奏曲を奏でているだろうマシンも、今夜ばかりはロデオのように北見の体をはずませた。  狂気《きようき》のようにワイパーが視界を煽《あお》ぐ。その動きがわずらわしくて、仙田はサンルーフを開けた。 「前を見てくれ!」 「よし!」  首を突《つ》きだした北見の顔を、波しぶきのような雨が洗う。 「左へ曲った!」  答えの代りに、キーッと耳ざわりな音をたてて、プレリュードがカーブを切る。雨といっしょに北見は、助手席へころげ落ちた。 「近いぞ」 「逃《に》がさん」  ……ふたりとも、頭へ血がのぼりきっている。ついきのうまで、平和そのものの愛妻家だった仙田が、今や狂熱のドライバーだ。たまに大藪春彦《おおやぶはるひこ》を読んで血を沸《わ》かすことはあったが、いくらなんでも自分が、カーチェイスに主演しようとは。 (悠子が見たら、なんというだろう……)  つい、頭がお留守になったときだった。 「やった!」  性懲《しようこ》りもなく、またサンルーフからのびあがっていた北見が、金切り声をあげた。  わずかにおくれて、仙田も、その事故を視認した。  滝《たき》のような雨に打たれて、ハンドル操作を誤ったのだろう、バイクから宙にほうり出される男の姿があった。  マシンはその位置で横転したが、男は路肩《ろかた》の外へもんどりうっている。かなりの落差があるようで、谷といってもいい地形の底に、男の影《かげ》は消えていた。 「探そう」 「うむ」  男を探して——息の根を止めるのだ。  車を事故現場に停《と》めたふたりは、だが、不運だった。  前方から刑事《けいじ》ドラマでお馴染《なじ》みのパトカーが、目ざわりな赤い灯《ひ》をちらつかせて、通りかかったのだ。 「どうしました。事故ですか」  若い、真面目《まじめ》そうな警官が顔を出した。深夜とはいえ、きちんとした服装《ふくそう》の仙田たちに、相応の敬意を払《はら》っている。 「はあ……」  北見は生返事したが、こうなっては仕方がない。仙田は、ありのままを答えることにした。 「我々の前を走っていたバイクが、ここで転倒《てんとう》して」 「乗っていた人は?」 「たぶん、この下の……雑木林に落ちたと思いますが」 「それはどうも」  警官ふたりが、きびきびした動作で、車を降りてきた。 「ご苦労さまです。すぐ、私どもが救助にむかいます。ご安心ください!」  安心できるものか……仙田は、はじめて、刑事ドラマで逃げ惑《まど》う犯人の気持がわかるような気がした。  第五章 死にすぎたのね     1  軍太《ぐんた》はなおも朦朧《もうろう》としていた。 おれがおれであって おれでないような それにしても おれとは なんだったのか おれが おれにたずねたが おれは こたえてくれないのだ おい おれよ おれは いまどこにいる おれは これからどこへゆく  色彩《しきさい》にたとえるなら、灰色のもやが軍太のまわりを取り巻いていた。  軍太は頭上を見た。  ぶあつく濁《にご》った灰色の雲が、重たげに垂れこめていた。  軍太は足もとを見た。  ぶあつく濁った灰色の雲が、重たげにかさなりあっていた。  ……?  すると今おれは、どこにどうやって立っているのだろう。  ぶるんと首をふって、軍太は自分の足に焦点《しようてん》を合せたが、かれの立っている場所はなかった。 �宙に浮いている!�  恐怖《きようふ》した。  夢《ゆめ》の中ならこのあたりで、永久運動のような墜落《ついらく》感に囚《とら》われ、甘美《かんび》な嘔吐《おうと》をおぼえるのだが、今日のそれは夢ではなかった。 �そうだ……おれは死んだんだ�  辛《かろ》うじて現世の記憶《きおく》をとりもどした軍太は、あわててジーンズの尻《しり》ポケットに手をやった。にょっきり突き出しているのは、ハンケチで丸めた二本のメスだ。  あった。  良かった……  やれやれだ。  こいつを持ってゆくために、おれは苦労して死んだんだからな。  そのメスは、軍太の父の遺品だ。いっそ戦死と形容したい、辺地の医師の壮烈《そうれつ》な死であったが、村人たちの愛惜《あいせき》の念をのぞいては、金も名誉《めいよ》ものこらなかった。家族の生活費を捻出《ねんしゆつ》するため、診療《しんりよう》器具も家財道具もつぎからつぎへと売り払われ、わずかに岩手医師が愛用した二本のメスだけが、形見として軍太の手に残されたのである。 「メスというのは、オランダ語だよ。日本の医学は、蘭学《らんがく》からはじまったのだ。日本ではじめてメスをふるったのも、シーボルトなんだ」  忙《いそが》しい父だったが、ごく稀《まれ》に幼い軍太を膝《ひざ》の上に乗せて、そんな話をしてくれた。このメスを使って、人を殺すつもりと聞いたら、おやじはさぞびっくりするだろうな。  軍太はおかしくなった。  ハンケチをほどいて、メスを取り出す。古いものだが、軍太が熱心に手入れしていたから、今も切れ味は十分にするどい。 �志摩子《しまこ》�  かれは、声にならない声を発して、彼女を呼んだ。 �どこにいるんだ、志摩子�  八方にテレパシーを投げたが、あたりを包む雲とも霧《きり》ともつかぬ鉛《なまり》色の垂れ幕は、底なし沼《ぬま》のように反応がない。 �おうい……志摩子!�  叫《さけ》びながら、軍太はぞっとした。  もしも……もしも、おれのいるこの世界が、志摩子のいる世界とちがっていたら、どうしよう。  ダンテの『神曲』ではないが、冥界《めいかい》に階層があるとするなら、いくらさまよいつづけても、彼女《かのじよ》に会うことはできなくなる。  そんなはずはない、と軍太は無理にも思うことにした。  志摩子はきっといる。彼女の方だって、おれを必死に探しているにちがいない! �志摩子!�  呼ばわりながら、軍太は灰色の空間を泳いだ。  幽霊《ゆうれい》になってホヤホヤなので、つい、肉体を備えていたころの自分のつもりで、手や足に力をこめてしまうのだが、実際にはそれと意図しさえすれば、なんの抵抗《ていこう》もなく浮揚《ふよう》し、前進できることがわかった。 �こいつは便利だ�  おもしろくなった軍太は、一気に加速した。  漠々《ばくばく》たる雲が、軍太の両サイドを濃淡《のうたん》のあるマッスとなって、後へ後へふっとんでゆく。  それにしても、雲量は多く、どこまで行っても尽《つ》きそうにない。 �じゃあこっちは�  思いきって、真下へ沈んでみた。  ——とたんに視界がひらけた。 �わっ�  こんなにたまげたことはない。目と鼻の先に巨大なホワイトチョコレートのような、白い壁《かべ》が聳《そび》えていた。壁には無数の銃眼《じゆうがん》がひらいている。  その幾何《きか》学的図形の量感に圧倒《あつとう》されたものの、どこかで見たような風景ではあった。 �?……なんだ。こりゃあ新宿プラザホテルじゃないか�  予備知識ぬきで、にゅっとあらわれたから戸惑《とまど》ったが、新宿副都心の超《ちよう》高層街に先鞭《せんべん》をつけた、地上四十七階アメリカンスタイルの大ホテルにちがいない。  右を見ると、新宿センタービル、三井《みつい》ビル、住友《すみとも》ビルとおなじみのスカイスクレーバーが、ずらりと並《なら》んでいた。 �おれ……雲の中でうろついていたのか�  やっと状況《じようきよう》がのみこめてきた。  異次元でもヨミの世界でもない、霊《れい》と化した軍太は、たった今まで、副都心の空にたちこめていた雲で視界をとざされていたのだ。  幽霊は重力から自由になる……そのせいでおれ、糸の切れた風船玉みたいに、ふわふわ空へ舞《ま》いあがってしまったんだ。  そうとわかれば、急いで東西大学にもどらなくては。  いつの間にか、あたりは白《しら》んでいる。昨日につづいて、ぱっとしない天気だが、朝はもうそこまで近づいていた。 �志摩子が心配しているぞ�  滑空《かつくう》しようとして、思い直した。  おっと、テレポートという超能力があったっけ。  秀介は、精神を集中しさえすれば、どこへでも瞬間移動《しゆんかんいどう》できるといったよな……やってみよう。  軍太は、目を——といっても肉眼は存在しないから、心眼をつむって、一か所に意志をあつめようとした。  ……としたのだが、できなかった。 �ひ�  鼻先の窓ごしに、白と黒とがからんでいる構図が展開した。  囲碁《いご》の名人戦がはじまっているのではない。だだっ広いダブルベッドを戦場にして、色あくまで抜《ぬ》けるように白い男と、トースターで両面こんがり焼きあげた黒い肌《はだ》の女が、勝負を度外視したレスリングを演じていたのである。  男は水商売かなにかで、お天道《てんとう》さまに照らされたことがないのだろう。生っ白い割りには力戦しているが、女にいたってはボディビルの優勝者みたいにたくましいから、若い軍太が生つばをのむほどの凄絶《せいぜつ》シーンだ。  ふたりだって、まさか地上四十階の窓を外からのぞかれようとは思わない。カーテンもあけっぱなし、朝の光を全身に浴びて、きわめて健康的に、種族保存の本能を満足させようとしていた。  スーパーマンがピーピング・トムに変身したような思いの軍太は、しばし呆然《ぼうぜん》とワイドなガラス窓に貼《は》りついていた。 �いかん、いかん�  やっとのことで我にかえって、視線を窓からひっぺがしたものの、全身の力が萎《な》えた感じで、白亜《はくあ》の壁《かべ》に沿ってずるずると下降した。  久米の仙人《せんにん》の気持が、よくわかった。 �テ……テレポート�  りきんだものの、この状態で精神集中ができると思いますか、あなた。  ふわり移動したと思ったら、そこはさっきのダブルベッドのへやだった。  肉弾戦は、いまやクライマックスにのぼりつめようとしている。 �たすけてくれ�  だらしなく四つン這《ば》いになった軍太は、ほうほうの態《てい》で壁をぬけ、となりのへやへ逃《に》げこんだ。 「あな……た」 「愛しているよ、きみ」  どうやらこっちの泊り客は、ハネムーンのふたりであったらしい。 �よせやい�  軍太は死にものぐるいで、つぎのへやへおどりこんだ。 「坊や、ここへおいで」 「はい奥《おく》さま」  なんだなんだなんだ。  そこでは象のように皮膚《ひふ》をたるませた婦人が、カモシカみたいな少年を、がっちりかかえこんでいた。 �どいつもこいつも、色|気違《きちが》いばかりだ!�  悲鳴をあげた軍太は、今度こそ空中へ逃げだした。 �ひでえ……�  かれは、ぜえぜえとのどを鳴らした。  まったくひどい奴《やつ》らだ! 自慢《じまん》じゃないがおれ、岩手軍太は、ろくに女も知らずに勉強していた。  実情は、バイトでためた金をつぎこみ、トルコで筆下ろししたことがある。  天にも昇《のぼ》る心持が忘れられず、三日のあいだ悶々《もんもん》としていた軍太は、四日めついに我慢できなくなって、おなじトルコ嬢《じよう》に会いにいった。 「おれ、金ないんだけど……ローンじゃだめ?」  もちろんだめだった。  あれから幾星霜《いくせいそう》、なまじ軍太が男らしくあればあるだけ、体の心棒をつらぬく欲望が、このたくましい青年をさいなんでいた。  ロマンポルノやビニ本をダッチワイフ代りにオナるのもいいが、代用食はやっぱり代用食であって、スイトンより銀シャリの方に目がゆくのは、戦中戦後の世代を問わない。  副都心の空で、軍太はあわれに身をもんでいた。  西をむけばアベックの名所、新宿中央公園の緑がなやましく、ビル街をながめればそそりたつ超《ちよう》高層がなにやら男性のシンボルに見えてきた。  それどころか、地下にむかってぱっくり口をひらいた西口広場が、新宿という女のワレメちゃんに見えたのだから、軍太のハングリーぶりもかなり昂進《こうしん》したといわねばならない。  そのイメージに触発《しよくはつ》されてか、俄然《がぜん》かれが思い浮べたのは——  破れたワンピースから、ゆたかにこぼれた胸のカーブ。  いうまでもない、志摩子の部分的大写しである。  ほしい!  今ほど痛切に、軍太がそう思ったことはなかった。  理不尽《りふじん》な死への同情だの、似而非《えせ》紳士《しんし》どもである教授たちへの憤激《ふんげき》だの、お題目をかなぐり捨てて、軍太はただもう目がくらむほど彼女を欲した  当然の帰結として、かれは一心不乱に念じたのである。 �志摩子のそばへ行きたい!  志摩子のそばへ!  志摩子!  志………�  車とちがってテレポーテイションには、発進時の衝撃《しようげき》もブレーキのショックもあり得なかった。 「あっ」  という間もあらばこそ、軍太は志摩子のそばに着いていた。  場所は東西大学の中庭、グラジオラスの花壇《かだん》の一角に彼女《かのじよ》はいた。ただし彼女だけではなかった……志摩子は若い男に組み敷《し》かれて、死に物狂《ものぐる》いで両足をばたつかせていた。     2 「いってきます!」  いつもは礼義正しい秀介《しゆうすけ》だが、今日ばかりはママのご機嫌《きげん》を損じても、仕方がない。  力まかせに玄関《げんかん》のドアを閉めて走りだすと、果たしてママの声が、 「落ち着きが足りませんよ」  と追いかけてきた。そのあとの文句は、聞かなくたってわかってる。 「そんなことでは、試験のとき困るでしょ!」  和歌の下の句で、どんな上の句につけてもつながる十四文字があるという。 「それにつけても金のほしさよ」  月見れば千々《ちぢ》にものこそ悲しけれ     それにつけても金のほしさよ  という工合だ。  おなじ要領で、ママの小言ときたら、必ず下の句に、同一のせりふがつく。 「のろのろしてちゃいけません。そんなことでは、試験のとき困るでしょ!」  という調子だ。  親不孝のようだけれど、いまはママのワンパターンにつきあっている余裕《よゆう》がなかった。  たしかにおかしい……軍太の身に、異常が起こっている。起きぬけにもう三度も電話のベルを鳴らしたのだが、ついに応答の声は聞えなかった。  いくら軍太が寝坊助《ねぼすけ》だって、せまいへやだもの、五へんつづけてベルが鳴れば、いやでも送受器をとりあげるだろう。  昨夜秀介の心配したことが的中したのかもしれない。責任を感じたかれは、とるものもとりあえず、軍太のアパートを訪ねることにしたのだ。  成城学園前から千歳船橋《ちとせふなばし》まで、鈍行《どんこう》で二区間だから、電車はすぐに到着した。  駅からアパートまでの道を、秀介は、いつの間にか飛ぶように走っていた。  駅に近い商店街はもう眠《ねむ》りからさめていたが、住宅街もこのあたりまで奥《おく》まった場所になると、まだゆうべのまどろみがつづいているようだ。  足音をセーブして二階へのぼる。  ドアをノックしたが、予想通り返事はなかった。  軍太に借りていた合鍵《あいかぎ》でドアをあける。 「お早う」  そっと顔を突っこんでみた。  だれもいない。  どういうわけか、へやの真ん中に昨日軍太のはいていたズボンが、くしゃくしゃになって脱《ぬ》ぎ捨ててあった。  ひどく急いで脱いだみたいだ。すると軍太は、パンツ一丁《ちよう》でとびだしていったのだろうか……そんな馬鹿《ばか》な。 「軍太さん」  声をかけると、どこかでがたんという音がしたので、秀介は、体をこわばらせた。  へやの中を見回したが、音を出すようなものはなにもなかった。 (そうだ、ユニットバス)  気がついて秀介は、バスルームのドアをひらいたが、やはり人影《ひとかげ》はない。  ただ、昨日までなかったものが、洗面台にのこされていた。 (化粧品《けしようひん》だ………)  ファンデーションやルージュやコンパクトや、そのほか秀介が見たこともない女性用の小道具が散乱していた。  女が、軍太のへやにいた!  幽霊《ゆうれい》の志摩子が、口紅をひくとは考えられないから、昨夜秀介が帰宅したあとで、生身の女性がこのへやを訪れたのだ。 (信じられない) (でも) (軍太先生、やるう)  秀介がつい思考を短絡《たんらく》させたとき、がたがたと襖《ふすま》の揺《ゆ》れる音がした。  音は、押入《おしいれ》の中だ!  それに気づいた秀介は、バスルームを出て襖の前に回った。 「だれかいるんだね」  声をかけると、答えの代りにまた中でなにかがぶつかった。 「志摩子さん?」  たしかめたのは、もしやこの音が彼女のポルターガイストかと思ったからだが、押入の中では、「ちがう」とでもいいたげに、いっそうヒステリックにさわぎたてた。  用心のために、壁《かべ》にたてかけてあった軍太のバットを右手でつかんで、 「えい」  ひと息に襖をあけた秀介は、あっとばかりに目をむいた。  いくら天才でも、こんな刺戟《しげき》的な代物《しろもの》を見せつけられては、しばし頭がエンストする。  押入の中には、体にからみついた雑多なひもをアクセサリーとして、裸《はだか》のジュン子が、白いひょうたんみたいに括《くく》りあげられていた。 「い……ど……あ……」  途方《とほう》に暮《く》れた秀介は、断続的に意味不明の発音をした。 「いったいどうしたんです、あなた」  とでもいいたかったのだろう。  ジュン子は、ひくい声でうなりながら、首をしきりに左右に振った。 「あ、ごめん。これじゃしゃべれませんね」  口を縛《しば》っていた手拭《てぬぐい》をほどき、胸のあたりまでぶら下っているTシャツをひっぱりだすと、ジュン子は肩を波打たせてげえげえのどを鳴らした。 「あの野郎、ぶっ殺したる」  一瞬《いつしゆん》秀介は男かと思ったが、胸にふくれあがっているのは、まぎれもなく女の第二次|性徴《せいちよう》である。 「ひでえ目に……会わせやがった!」 「いったいどうしたんです、あなた」  と、秀介の発音も正常にもどった。 「どうにもこうにも……このへやの男に、やられちまってよ」 「軍太さんが、あなたを」  秀介は、自分より四つ五つ年上らしい少女をつくづくと見た。  女にもてない軍太先生、とうとう頭に血がのぼって実力行使をはじめたのか……それはおかしい。  バスルームの化粧品を見たときは、つい失念していたが、 (軍太先生が好きなのは、志摩子さんだからな)  純情な秀介としては、飢《う》えた男が「女ならだれでもいい!」と狂乱《きようらん》状態になる場面なんて、想像がつかないのだ。その軍太先生が、志摩子さんとまるでタイプのちがう、こんな女の人を手ごめにするはずがない…… 「おい坊主《ぼうず》」  ジュン子がいらだった。 「早く縄《なわ》を解けよ。それともお前、あいつの仲間か」 「仲間かどうかわからないけど、ぼくは生徒だよ」 「どっちだっていいや。さっさとしないとあとがこわいぞ」  と、ジュン子は縛《しば》られた両足をばたつかせる。 「『吉四六』の熊《くま》さんになぐりこませてやる」 「吉四六」  それなら秀介も、ゆうべこのへやで軍太から話を聞いた。ではこの少女は、「吉四六」につとめているのだろうか。そんな人を、なぜ軍太さんが………カンのいい秀介は、ははあと思った。 「赤犬がいるってお店だね」 「そうだ! あの犬だってこわいんだから」 「幽霊《ゆうれい》をみつけるほど、鼻がきく」  秀介がかまをかけると、ジュン子はすぐにひっかかった。 「そうそう、志摩子っていう幽霊も……」 「おかしいな」  秀介が首をかしげてみせた。 「いくらその犬が利口だって、幽霊の名までわからないでしょう。もしわかっても、名前をあなたたちにどうやって教えるんですか」  ジュン子が詰《つ》まったのを見て、秀介はたたみかけた。 「幽霊に気づいて、熊本《くまもと》という人が軍太さんのあとを追ってきた……ぼくらの話をぬすみ聞いたんだ。ちがう?」 「…………」 「そのころ軍太さんとぼくは、志摩子さんがなぜ幽霊にされたか、そもそものはじまりから、しゃべりあっていた……だから」  秀介は、ジュン子をにらんで、 「それを聞いた熊本|塔吉《とうきち》って人、しめたと思ったんじゃない? 軍太さんの話だと、お店がうまくいってないそうだし」 「もういいよ、その先は」  ジュン子がふてくされたように、口をきいた。 「ガキのくせによくわかったな。頭がいいぜ、ほめてやる」 「みんなそういってくれるんだ……ありがとう」  口ばかりで、秀介はちっともありがたそうな顔をしない。 「熊さんが大学に脅迫《きようはく》電話をかけてさ。……私が金を貰《もら》いに出ようとしたところなんだ、あいつにやられたのは」 「そんなことだと思った」  といいかけて、秀介がはっとことばを切った。 「じゃあ軍太さんは、あなたの身代りになって、大学へ乗りこんだのか!」 「たぶんね。私の服を脱がせたのは、自分が着るつもりだったから……おかげでシャツを破られちまってよ」  ジュン子は、苦しそうに体をゆすった。 「さあ、もういいだろう。縄《なわ》を解いてくれ」 「ほどいたらどうするの」 「きまってら。……熊さんにわけを話して、軍太って奴《やつ》をとっちめるんだ。私の代りに百二十万せしめやがって」 「そうじゃないんだ」  秀介がいらいらと否定した。 「先生は……たぶん、殺されてる」 「なんだって」 「あなたの代りにね。……あの学校の先生たちは、あなたや熊本さんが考えているよりワルなんだよ」  パパとは、いいにくかったようだ。 「脅迫者を殺そうとしたにちがいない。だから軍太先生は、お金を貰《もら》うためじゃなく、殺されるために出かけたんだ!」  ジュン子は、目をぱちくりさせた。 「いってることがわからない」 「わからなくてもいいんだ」  立ちあがった秀介を見て、ジュン子はあわてた。 「ちょっと! このまま私をほうっておくつもりかよ」 「そんなつもりはないさ」  ジュン子の背に回った秀介は、結び目に手をかけてゆすった。 「当分ほどけそうにないね」 「痛い、痛い」  ジュン子は大袈裟《おおげさ》に泣き声をあげた。 「だからさっさと縄《なわ》をほどけというんだ」 「ほどけばあなたは、熊さんの店か大学へ飛んで行く……いましばらく、邪魔《じやま》されたくないから……ごめんよ」  秀介がつかんだ手拭《てぬぐい》を見て、ジュン子はふるえあがった。 「いやだよ、その手拭。鼻が曲りそうだったんだぞ。私は蓄膿症《ちくのうしよう》じゃないんだ」  秀介の手を逃《のが》れようと、身もだえしたはずみに、ジュン子の胸の隆起《りゆうき》が、少年の肌にあたった。 「あっ」  まるでやけどしたみたいに、秀介はあわてふためいて手を引いている。  本能的にジュン子は、この一筋縄でゆかない優秀《ゆうしゆう》な中学生の弱点を見抜《ぬ》いた。 「ねえ、きみ……勘弁《かんべん》してよお」  鼻声をたてて、彼女は秀介にしなだれかかった。片方の乳房《ちぶさ》が、秀介の膝《ひざ》のあたりで押しつぶされた。その抜群《ばつぐん》の触感《しよつかん》がかえって少年に、未知の恐怖《きようふ》をあおりたてたらしい。 「よせったら」  邪慳《じやけん》に体をひいたので、ジュン子は派手な音をたてて横ざまに倒《たお》れた。すかさず哀れっぽい声をはなつ。 「痛あい……腕《うで》がねじれちゃう」  後ろに回った手を体の下敷《したじき》にして、全身をくねらせる少女を、さすがに少年も捨てておけなくなり、 「仕様がないなあ」  肩《かた》に手をかけて、おこしてやった。  くるりと体を回転させたジュン子は、 「やさしいんだね、あんた」  秀介の太腿《ふともも》に頬《ほお》ずりした。 「やめろよ!」  腿と腿が合流するあたりから、脳天へきゅーんと異様な感覚が走って、秀介は狼狽《ろうばい》した。  後退しようとしたが、後ろはあけっぱなしの押入だったので、背に棚板《たないた》がぶつかって、腰《こし》が砕《くだ》けた。 「わっ」  布団《ふとん》と洗濯《せんたく》物のあいだに体が埋《う》まった秀介の上へ、縛《しば》られたままのジュン子がのしかかってゆく。  顔にキングサイズのマシュマロを、おまけにふたつも押しつけられて、秀介はもがいた。 「よせってば!」 「かわいい」  と、ジュン子の笑みをふくんだ声。 「よく見ると、あんた二枚目だよ。タレントになれるよ。でもそのためには、女の子を扱《あつか》う修業しなくては」  膝《ひざ》がしらを、少年の股間《こかん》にもみこんだ少女は、勝ち誇《ほこ》ったように宣告した。 「もうこんなに大きくなってる! あんた、これ以上|我慢《がまん》したら毒だよ。毒が頭に回ると成績が落ちるよ」  押入の暑苦しいスペースにたちこめていた、軍太の体臭《たいしゆう》に代って、女の匂《にお》いが充満《じゆうまん》すると、秀介は気が遠くなりそうだった。  ジュン子はゆっくりと裸体《らたい》をローリングさせた。 「いいんだぜ……抱《だ》いても」  ささやく声が、蜜《みつ》のようだ。 「あんたにあげる」  催眠《さいみん》暗示にかかったみたいに、秀介は目をつむったまま、両手をジュン子の背に回した。 「そう、そう……だけどこれでは窮屈《きゆうくつ》でやりきれない。結び目に指が届くだろ。ほどいてくれ」  本音を吐《は》かれて、秀介は手をひっこめようとした。そのとたん、ひと足お先に、ジュン子の方が体をずり下げている。  乳房《ちぶさ》の重圧から解放されて、息が楽になったものの、秀介はひどく名残《なご》り惜しい気がした。 「そんなに私がこわいのか」  ジュン子は、声をとがらせた。 「ことをすませたあとで、もういっぺん縛《しば》りゃいいんだ。あんた男だろう。私くらいの女の子なら、どうにでも押えこめるじゃないか。だらしのない坊やだな」  ぼくは女の手に乗せられてる……そう思いながら、秀介はかっとなった。 「こわいもんか!」  そうだ、女なんて——セックスなんて、こわかないぞ。プランク定数や、シュレーディンガーの方程式にくらべりゃ、屁《へ》のようなもんだ!  自分でももどかしくなるほどののろさで、ジュン子の縛《いまし》めを解いた秀介は、彼女の白い肉体にむしゃぶりついていった。  まったく信じられない話だけれど、その瞬間《しゆんかん》のかれの目には、この手のつけられない男好きの女の子が、全身からオーラを発する女神のように見えたのである。 「かわいい」  ジュン子も、真剣《しんけん》になってかれに応じたが、合戦は少年によくあることで、呆気《あつけ》なく終った。 「……良かったよ、あんた」  女の香りにダブって、汗と、さらにべつの匂《にお》いが満ち溢《あふ》れた押入の下段に、上半身を突っこんだままの姿勢で、ジュン子は、秀介の髪を撫《な》でてやった。  少年は、まだ夢の花園を遊んでいるみたいに、瞳《ひとみ》をけぶらせている。 「初陣《ういじん》なんだろ、りっぱなもんさ」  雷雲《らいうん》は秒瞬の間に厖大《ぼうだい》な電気エネルギーを発散させる。紫電一閃《しでんいつせん》の快《かい》を、秀介は夢《ゆめ》うつつで反芻《はんすう》していた。 「さて、と」  押入の中段に頭をぶつけないよう、用心しいしい体を畳の方へぬいたジュン子は、破れたTシャツに腕《うで》を通しながら、行儀《ぎようぎ》わるく、足の爪先《つまさき》でテレビのスイッチを入れた。  あとで縛り直せといったことなど、どこ吹く風だ。  女の武器でぐにゃぐにゃにされた秀介が、よもや力ずくで自由を奪《うば》いにかかるはずはないが、万一そんな事態になったら、とっときの大音量で、 「人殺しーっ」  と叫《さけ》んでやる。  ホットパンツを軍太に奪われたのを思い出して、舌打ちしたジュン子は、かれの洗濯《せんたく》物から、まあましなズボンを選んで、はいてみた。裾《すそ》を幾重にも折り返せば、恰好《かつこう》がつく。Tシャツの破れ目も、安全ピンでごまかせそうだ。  テレビニュースのボリュームを調節しながら、ジュン子は、横目で秀介の様子をさぐった。  やっと半身を起こしたものの、まだ霞《かすみ》がかかったような按配《あんばい》だから、ジュン子はくすりと笑った。 「じゃあね、坊《ぼう》や」  たたきに降りようとしたジュン子に、秀介がいった。 「熊本さんが、事故だって」 「えっ」  秀介の視線をたどると、テレビの画面に、横転しているバイクが映った。雨に打たれたらしく、異様に光る車体のスチール写真である。  アナウンサーの抑揚《よくよう》のない声が、その上を流れた。 「……調べによりますと、バイクを運転して谷に落ちたのは、千歳船橋駅の近くで和風スナックを経営している、熊本塔吉さんで、意識不明のまま最寄《もよ》りの病院で手当てを受けています」     3 �き……きさまあ!�  雄獅子《おじし》のように吼《ほ》えた軍太は、男の背に飛びかかった。  正しく表現すれば、飛び「かかる」というような生ぬるいアクションではない。  一挙にテレポートして、男の背に密着した軍太は、怪力《かいりき》で男の首をしめあげた。 �ぐえっ�  情けない悲鳴とともに、男の体がそりかえった。  その顔を見て、 �熊本塔吉!�  おどろくはずみに力がゆるんだとみえ、相手はするりと軍太の攻撃《こうげき》を外した。 �志摩子さん、大丈夫《だいじようぶ》か� �ありがとう……�  志摩子は、息を弾《はず》ませている。 �軍太さんを探して、大学を歩いていたら、ふいにこの人が……� �志摩子さんを、どうしようとしたんだ、塔吉�  軍太は血相を変えて、塔吉に詰《つ》め寄った。 �彼女の操《みさお》を奪おうとスたのか�  興奮したので、つい訛《なま》りが出る。相手はせせら笑った。 �なにがミサオだ。羊羹《ようかん》じゃあるまいし、三|棹《さお》も四棹も関係ねえよ。おれをこんな姿にしてくれて、腹が立ったからおどしてやったまでさ� �こんな姿……�  軍太は、塔吉をまじまじと見た。 �すると……あんたまで幽霊《ゆうれい》になったのか!� �なりたくてなったわけじゃねえ。大学の先生ふたりに追われてよ。お前のバイクで逃《に》げ回ったが、とうとう事故でおシャカになっちまった� �おれのバイク?�  軍太が目を怒《いか》らせた。 �あのバイクは、おれのじゃない。なんてこった、弁償《べんしよう》しなきゃならんぞ!� �死んだ人間が、どうやって生きてる奴《やつ》に弁償できるんだ�  捨鉢《すてばち》な口調で、塔吉がいった。 �そんなことよか、おれがいなくなったあと……だれが吉四六に餌《えさ》をやってくれる? 可哀相《かわいそう》になあ、吉四六よ……今ごろ、おれの帰りを待ち侘《わ》びて、腹をすかしているだろう� �千歳船橋駅へ毎日あんたを迎《むか》えに出て、駅前に銅像が立つだろうよ。忠犬吉四六ってな� �笑いごとじゃねえ!�  いきりたった塔吉に、軍太はつめたく、 �やれやれ、とんだお笑い草だ。東西大学の学長先生から、大枚まきあげるつもりで、あべこべに命をとられてしまうなんてね� �軍太!�  今にも噛《か》みつきそうだった塔吉の表情がひょいと崩《くず》れて、弱々しげな目つきで、咲き誇《ほこ》るグラジオラスの花を見た。 �へっ……考えてみりゃ、お前のいう通りだ……小さなワルは、大きなワルにゃかなわねえ……命あっての物種なのに、おれも阿呆《あほ》なことを思いついたよ� �生きてる内に、それに気がついていたらよかったんだ�  しおらしくなった塔吉を見て、軍太もことばをやわらげた。 �そんなことができりゃ、なんども女房《にようぼう》に逃げられてやしない�  背を向けようとした塔吉に、軍太がたずねた。 �どこへ行く� �おれの店さ……せめて吉四六に、お別れの挨拶《あいさつ》をな� �それなら、テレポートするがいい� �テレポートだって�  塔吉はきょとんとした。スナックのマスターには、縁《えん》遠いことばだ。 �テレポートくらいおぼえとけ。常識だぞ�  つい二、三日前まで、自分も非常識だったことを棚《たな》にあげて、軍太は、幽霊《ゆうれい》の超《ちよう》能力を解説してやった。 �どうだ。便利だろう� �不便でいいから、死にたくなかった……�  ぼやいてみたものの、そこは器用な塔吉だから、すぐコツをのみこんだ。 �おれの店……  おれの……  おれ……�  すんなり精神集中を果たしたとみえ、見る間に塔吉の姿は消え失《う》せた。  ——曲りなりにもふたりきりになれて、軍太と志摩子はほっと顔を見合せた。  休日の大学は、初夏の光を浴びて静かに眠《ねむ》っている。風がやさしく吹《ふ》き過ぎると、早咲きのグラジオラスたちが、これ見よがしに頭を振《ふ》っておどけた。  だが軍太の長髪《ちようはつ》も、志摩子の髪《かみ》も、そよともゆるがない。  長いあいだ互《たが》いの顔に見入っていたふたりは、やがておそるおそる手をさしのべた。武蔵野《むさしの》に伝わる逃げ水のように、つかもうとするとすいと遠ざかりはしないか……そんな恐《おそ》れを心に抱《いだ》きながら、軍太は思いきって志摩子の手をとった。  彼女の手は——そこにあった。  科学的に見るなら、もとよりナンセンスだ。  精神エネルギーだろうが思念の磁場だろうが、そんなものに手が生えてたまるものか。  だが、もし秀介あたりが、それを口にしたら、軍太はきっと怒鳴《どな》りつけたはずだ。 「ほっとけ! 精神波の磁場が、おれはプラスで彼女はマイナスなんだ。どんな妨害《ぼうがい》にあっても、おれたちはくっつく!」  手をとりあうまでにも時間がかかったが、それからあと抱《だ》きあうまでには、数倍の時間がかかった。  もっとも、抱きあったと思うとつぎの瞬間《しゆんかん》には唇《くちびる》を重ねていたから、磁極のNとSはふたりの唇に存在していたようだ。  ……思えば長いすれちがいであった。当節どんな純真|無垢《むく》のヒーローとヒロインだって、開巻からえんえんとラヴシーンを禁じられ、原稿用紙で三百枚を越《こ》すまで抱擁《ほうよう》もできないのでは、頭へ来て役をおりてしまうに相違《そうい》ない。  軍太は、一大決心の下にいおうとしていた。 �きみが、ほしい�  ここへテレポートするまで、そのことばが、くりかえしくりかえし、軍太の頭骨の内部でエコーしていた。  それなのに、今こうして、彼女をまのあたりにすると、なんという情けなさ、のどにスポンジが詰《つ》まったようで、口にすることができないのである。  軍太が霊界《れいかい》へ飛びこんだ理由はひとつ、志摩子を殺して、生き返らせることだ。  その肝心《かんじん》の目的をうっちゃらかして、 �きみがほしい、きみと寝《ね》たい、きみとセックスしたい�  というのは、なんたる不潔、なんたるハレンチ、なんたる色情|狂《きよう》であろうか。  そう考えると、猪突《ちよとつ》軍太としても、おいそれと舌に乗せることができなかった。  しっかりせい、軍太!  自分自身を叱咤《しつた》して、かれはやっとその気になった。  キスという手続きがおわった今、チャンスだ! �きみ、……�  軍太はかすれ声をふりしぼった。 �え� �きみはきれいだね�  ばかばか、意気地なしめ。こんなことだから近ごろの若い男は、女子大生やOLを、中年に根こそぎさらわれるんだぞ。 �うれしいわ�  志摩子が、心からうれしそうに答え、そして顔を赤らめていった。 �……愛してくれる?�  先を越《こ》されたとわかったのは、なん秒かあとのことだ。  ヤッホーと叫《さけ》び、口笛《くちぶえ》を吹《ふ》き、踊《おど》りだしたくなるのを我慢《がまん》して、軍太はもっともらしくうなずいた。 �いいとも……�  すると志摩子の、生き生きした笑声が聞えた。 �こんなこと女にいわせることばじゃないんだけど、でもそれだけ軍太さん、いい人なのね……私を大切に考えてくれてるのね�  奇妙《きみよう》なことに、目の前の志摩子はまったく笑っていない。 �そうか……幽霊《ゆうれい》は、テレパシーで相手の内面が読めるんだ!�  うずいていたおれの欲望、噛《か》み殺していたおれのせりふ、みんなのこらず彼女に筒抜《つつぬ》けだった!  そうと知ったとたん、軍太は耳の付根まで赤くなっていた。     4 「犬にもわかってるのかな」  元気なく床《ゆか》にうずくまった吉四六を見て、ジュン子がいった。 「そうらしいね」  餌《えさ》をやるのをあきらめて、秀介が答えた。せっかく最高級のドッグフードを買ってきたのに……軍太先生なら、きっと大よろこびでぱくつくだろう。 「人間は万物の霊長だなんていばってるけど、動物のふしぎな力は、人間の科学では解明できないことが多いのさ」 「私たちに見えない幽霊だって、ちゃんと見えたんだからね。飼《か》い主が死にかけてることくらい、すぐわかるんだ……吉四六、可哀相《かわいそう》に」  頭をなでてやると、軽く甘《あま》えた声を出したが、食欲の起きた様子はなかった。  テレビニュースで事故を知ったふたりは、すぐ「吉四六」へかけつけた。  最寄《もよ》りの病院といっても、塔吉が収容されているのは、どこなのかわからない。店に知らせが来ているかと思ったのだが、その様子はなかった。 「熊本さん、親戚《しんせき》はいないんですか」 「天草に伯父《おじ》さんがいると聞いたけど……あまりつきあってないみたいだ」 「そう」 「九州から大阪へ出てきて、小さな会社こさえたと思ったら、奥《おく》さんが若い社員と駈《か》け落ちしてね……関西にいや気がさして東京へ出てきたというのさ」 「東京でも、うまい仕事はなかったようだね」  侘《わび》しい店の造作を見やって、秀介がつぶやいた。 「うまくなったのは、口先だけだ。それもすぐメッキが剥《は》げて、また女に逃げられたんだって」  ジュン子は笑った。 「私だって、今度の一件がなかったら、ひと晩でおさらばさらばだよ」 「熊本さん、あなたをひきとめておくためにも、脅迫《きようはく》を成功させたかったんだろうな……」  子どものくせに世帯じみた表情で、秀介がぽつんといった。 「こうしていても、仕方がないよ。病院を探そう」 「ぼく、警察に問い合せてみる」 「子どもに教えるかな。そうか、熊本塔吉の弟とか名乗って」 「うそをつくと、あとが面倒《めんどう》だよ」  ダイヤルを回した秀介は、先方が出ると気取った声でいった。 「ああ、署長さんいる? いない、それならあなたでけっこう。ゆうべおたくの管轄《かんかつ》内で起きたバイク事故、熊本塔吉という男がはいっている病院を教えてくれないか。ああ、私は東……東西大学学長の東京一郎《あずまきよういちろう》は、私の父なんだがね」  恐縮《きようしゆく》した警官は、たちまち調べてくれた。  電話を切った秀介は、ジュン子に片目をつぶってみせた。 「名士を親に持つからには、せいぜい利用しなくちゃ」 「あきれたよ」  ジュン子は、苦笑する気にもならないようだ。 「どこの坊やかと思ったら、殺人犯人の息子《むすこ》とは」 「いまのところ、パパの肩書は学長であって殺人犯じゃない」 「だけど殺したことはたしかなんだぜ。志摩子って女と、ひょっとしたら軍太まで」  それに対して、秀介がなにかいおうとしたとき、むくりと吉四六が体を起こした。 「吉四六、どうした」  ジュン子が撫《な》でてやろうとした手をくぐり、だれもいない入口にむかって、かれはけたたましく吠《ほ》えはじめた。 「幽霊《ゆうれい》?」 「だれの」  ジュン子と秀介が、つづけざまに叫《さけ》んだ。  無駄《むだ》と知りながら、吉四六が吠えかかる空間をにらんでいたジュン子が、はっとして秀介の腕《うで》をつかんだ。 「見ろよ。吉四六の奴、尻尾《しつぽ》をふってるぞ……」  そう……捲《ま》きあがった尾を必死にふって、吉四六はなにかにすがりつこうとしては、むなしく前足を床《ゆか》に落としていた。 「ほんとだ……熊本さんの幽霊があらわれたんだ」 「いやだな。キビがわりいや」 「そんなこというもんじゃないよ」  秀介が目をかがやかせた。 「ちょうど良かった」 「なにが良かったのさ」 「ぼく、困っていたんだ。軍太さんがへやにもどらないということは、殺された可能性が大きいだろう」 「まあね。あんたの話してくれた事情があるんなら、あいつのことだ、張り切って殺されに行ったんじゃないか」 「ところが、バラバラ死体のままでは、常識的に考えて志摩子さんは生き返れないからね」 「どうころんでも非常識な話だぜ」  笑ったジュン子も、真剣《しんけん》きわまりない秀介を見て、茶化してはわるいと思い直したらしい。 「だから、あの世で死ぬ前に死体を探せというんだろ」 「うん」  うなずいた秀介は、吉四六の方を見た。 「……それを、どうやって軍太さんに伝えるか、方法がなかった。たったひとり、志摩子さんを見ることのできた軍太さんが、死んでしまったのでは。……熊本さん!」  秀介が、腰《こし》に手をあてて呼ばわった。 「ぼくは、東秀介といいます。残念ですが、ぼくにもジュン子さんにも、あなたの姿を見ることができません。  あなたの方からも、ぼくたちに話しかけることができません………とても歯痒《はがゆ》い思いをしていらっしゃるでしょう。  ですが、ひとつ方法があるんです。  幽霊《ゆうれい》の超《ちよう》能力の中に、騒霊《そうれい》現象というのがあります。だれもさわらないのに、ひとりでに机や椅子《いす》が動く、いわゆるお化け屋敷《やしき》ですね。  念の力で超常的に動かすんだから、テレキネシスの一種といってもいいでしょう。さあ、ここに紙があります」  秀介は、壁にかかっていたカレンダーを一枚ひきちぎり、裏返してカウンターに置いた。  自分のポケットからぬいたボールペンのキャップを外し、いつでも書けるようにそばへころがすと、カウンターからはなれた。 「筆記用具もあります。……これで、ぼくの問いに対する答えを書いてください! こっくりさんになったつもりで……  いいですか、まずボールペンを持ちあげてくれませんか」 「そんなこと……できるの」  ジュン子が、秀介に寄り添《そ》った。 「できると思って!」  しんと静まりかえった空間に、秀介は力強い声を浴びせた。こんなとき秀介の自信に満ちた姿は、説得力がある。  幽霊がその気になったのか、隙間《すきま》風が吹いたのか……カウンターの上で、ことりと音がした。 「動くわ」  ジュン子の声が、うわずった。  動いている、たしかに。  へたくそなマリオネットのように、ボールペンが、ゆらゆらと立った。そのままの角度で、紙の上へ移動する。 「うまいぞ、熊本さん」  秀介が拍手《はくしゆ》した。  あれほど吠《ほ》えていた吉四六も、吐き出した舌をそのままに、ぼんやりとボールペンの動きに見とれている。 「筆圧に気をつけてくださいね……まず第一、あなたはたしかに、熊本塔吉さんの幽霊《ゆうれい》ですか」 「ペンが頼《たよ》りなく揺《ゆ》れた。 �そ……う……た� 「た」に濁音《だくおん》をつけようとしたが、小さな点は打ちにくいとみえ、なかなかインクが紙につかない。  それでもジュン子が、うっと息をのみこんだ。 「ありがとう。もうわかりましたから……第二、志摩子さんの幽霊に会いましたか」  またひとしきりペンが揺れて、 �あ……っ……た� 「では、軍太さんには」  ペンの先が、いま書きおえた「あった」の文字を、こつこつとたたいた。 「会ったんですね! やはり軍太さんは、殺されたんだ」  横にすべったペンが、「そうだ」の文字をたたいてみせる。 「それじゃあ熊本さん。お願いがあります……うまくいけば、あなただって生き返ることができるんです、だから聞いてください!」  塔吉もびっくりしたらしい。宙に浮いていたボールペンが、感電したように大きくふるえた。 「軍太先生に伝えてほしいんです……軍太さんは、志摩子さんを助けるつもりで、わざと殺されました……」  マイナスかけるマイナスの理論をざっと述べたてて、 「せっかく魂《たましい》が現世にもどっても、帰る体がないのでは、もっと始末のわるいことになります」  という秀介に、ジュン子がたずねた。 「たとえば、どんな」 「転生《てんしよう》……あるいは再生ともいうんだ。レインカネーション、俗にいう生まれ変りだよ。たまたまそのとき心が白紙状態の赤ん坊《ぼう》とか、場合によっては犬とか猫《ねこ》になるかもしれない」 「それじゃ、いくら美人だっておしまいだ!」 「だから軍太先生には、まだ志摩子さんを殺してはいけない、死体をみつけるのが先だと伝えてください。まごまごしてると、とり返しのつかないことになる!」 「熊さん、そういうことなのさ。なんとかふたりを探してくれるかい」  ペンが動いた。 �おれもいきかえることかてきるか� 「きっとできますよ」  秀介がうけあった。 「ふたりがためすのを見てから、熊本さんもやってごらんなさい……そのために、軍太さんはメスを持って死にました」  吉四六がまた吠《ほ》えはじめた。  抱《だ》きあげたジュン子が、犬の顔を空中に突きだして、 「そうすりゃ、またこいつをかわいがってやれるんだ。希望を持ちな、熊さん。私だって、もっとかわいがってほしいからな」 �わかった�  もう一度ペンが動き——すぐカウンターの上にころげ落ちた。  わん、わん、わん。  吉四六がジュン子の腕《うで》から逃《に》げだして、壁《かべ》に飛びついた。  しばらくソースのしみがついた板壁に、尾をこすりつけていた吉四六は、やがて虚脱《きよだつ》したようにその場にうずくまってしまった。 「熊本さん、ここから消えていったんだ」  壁を撫《な》でて、秀介がいった。 「うまく軍太さんたちに会えればいいけど……」 「あんた、どうする」  戸に手をかけながら、ジュン子が聞いた。 「うちへ帰るか、さっきのアパートへもどるか。私は熊さんのいる病院へ行くけど……あれえ」  ジュン子が首をひねった。 「意識不明で重体だってのに、熊さんたらもう幽霊《ゆうれい》になってうろついてるのかい。気が早いんだな」 「たしかにおかしいね」  と、秀介も考えこむ。 「すると病院では、今ごろは息を引き取っているのだろうか」     5 �さあ、ここだよ……おはいり、志摩子から�  ノリをつけアイロンをきかせたような声で、軍太が彼女を促《うなが》した。 �ええ……でも、ドアをあけずに通り抜けるなんて、おかしな気分� �仕方がないさ。おれたちには、羽根みたいに軽い物でも動かせないんだから�  ふたりが立っているそこは、新宿プラザホテル四十六階にある貴賓《きひん》室の前だ。ホテルに無縁《むえん》の軍太はともかく、たびたびこのホテルのパーティに来たことのある志摩子でさえ、こんな場所があるとは知らなかった。  そもそもエレベーターからして、専用なのだ。森《しん》と静まりかえったエレベーターホールに、大理石の彫像《ちようぞう》が飾《かざ》られていて、それだけでも志摩子は目を奪《うば》われた。  ドアのノブひとつにも、繊細微妙《せんさいびみよう》な細工がほどこされている……この内部が、世界のVIPを送迎《そうげい》した、日本最高レベルの贅沢《ぜいたく》きわまりない空間なのだ。 �待って、軍太さん。あなただって、動かせるかもしれなくてよ� �このノブを?� �秀介くんが説明してくれたでしょう……テレキネシス。幽霊《ゆうれい》だって、その気になれば現世の品物を移動できるんだわ。私でさえ、東西大学の応接室を、めちゃめちゃにしたんだから� �そ、そうか。やってみよう!�  軍太は、ロイヤルスイートルームのドアをにらんだ。  おれと彼女が結ばれるのにふさわしいへやとして、選んだ場所だ。  形ばかりの結婚《けつこん》をして、内心では憎《にく》んだりさげすんだりしている国王夫婦や、ベッドの中でも部下に電話で指示を与えている企業《きぎよう》トップなどを迎《むか》えるよりも、ベッドよシーツよスタンドよ、はるかに働き甲斐《がい》があるというもんだろう?  だからドアも、よろこんでおれたちを迎えるがいい。 �ひらけゴマ�  まじないのことばは、なんでも良かったにちがいない。ノブは、いとも素直にくるりと回転し、ほどよい広さに、ドアが開ききった。 �できた� �ね、できたでしょう�  手をとりあったふたりは、絨緞《じゆうたん》の上を滑走《かつそう》して室内にはいった。 �ふえーっ�  だらしなく、軍太が嘆声《たんせい》を発した。 �いったい、いくつへやがあるんだ……うおっ、庭までできてらあ……二階があるのかよ、おい� �メゾネットタイプなんだわ�  ゆるやかなカーブを描《えが》いて、このホテルの最上階へ導くコロニアル風の美しい階段が設けられていた。 �ここはダイニングルームとリビング、べつにパーラーが用意してあるみたいよ� �風呂《ふろ》はあるのかな� �当り前だわ�  志摩子は笑った。 �ほら、大型の三面鏡が置いてあるでしょ。あのドレッシングルームの並《なら》びよ� �マントルピースに、シャンデリアか�  軍太はまだうなっている。 �あるところには、あるもんだ� �本当にお金のある人は、そんなこといちいち気にしないみたいね�  軍太が階段をかけあがったが、かれのアパートとちがって、この階段は小癪《こしやく》にもことりとさえ音をたてなかった。もっとも今の軍太に重量はないが。  上階はベッドルームである。重い緞子《どんす》のカーテンを押《お》しあけると、陽光にかがやく東京が一望の下だ。 �ひょーッ……車も人も、アリより小さいぞ……たしかに、こんなへやを占領していれば、人間ばなれしてくるな� �すてき�  軍太のあとに従った志摩子のため息が、背にかかった。 �東京の町が? このロイヤルスイートルームが?� �なにもかもすてき�  軍太の指を、志摩子はごく自然にまさぐった。 �死んではじめてわかったわ。生きてることのすばらしさが� �このままきみを死なせやしない�  軍太は、志摩子を抱《だ》きしめた。  ふたりの後ろで、豪華《ごうか》なベッドカバーが音もなく舞《ま》いあがり、折りたたまれた。 �そのために、おれは来たんだ�  軍太と志摩子の体が宙に浮んだ。ゆっくりと横に流れ、ベッドの上に降りた。 �明るすぎるわ� �そうだね�  ひとりでにカーテンがとざされた。スタンドの明かりが、遠慮《えんりよ》がちに点《とも》った。ラジオのスイッチがはいり、耳にやさしいBGMが、うっとりするような旋律《せんりつ》を、広いロイヤルスイートルームいっぱいに奏ではじめた。  ……念のため解説しておくと、このへやは上下階全部で三百十平方メートル、一泊《いつぱく》のルームチャージが二十六万円というお値段である。  塔吉は熱心に探し回った。テレポーテイションの要領をのみこんでいるから、探索はきわめて能率的である。  わずかな記憶《きおく》を呼び起こして、予備校、大学、アルバイト先と駈《か》けめぐったのだが、それらしい霊《れい》の影もない。  まさかふたりが、はじめてのベッドインの舞台《ぶたい》を、超《ちよう》デラックスなホテルの貴賓《きひん》室に選んでいようとは、想像のほかだった。  探しあぐねた塔吉は、それならいっそ東京一郎をマークしようと思いついた。  血の気の多い軍太であってみれば、一度はきっと恨《うら》みのある学長の近くにあらわれる——と考えたのだ。  塔吉は、 �東京一郎の家へ�  と念じた。 �東京一郎……  東……�  だしぬけに、かれは新宿プラザホテルの正面|玄関《げんかん》へ移動していた。 �なんだい、これは。東の家とちがうじゃないか�  きょろきょろする必要は、なかった。かれの前にすべりこんだ黒い乗用車のドアを、金モールの征服を着こんだドアマンがひらいた。  車から降り立ったのが、当の東京一郎だ。  出迎えに来ていた京の宮都が、いそいそと走り寄った。 「先生、ご苦労さまでございます」 「やあ。待たせたかね」  温顔をほころばせた東は、ダークスーツにシルバーのネクタイ姿だ。そのあとから姿を見せた大子《だいこ》夫人のいでたちは、黒|留袖《とめそで》で裾《すそ》模様は金泥《きんでい》と朱《しゆ》で染めあげた雲取|天井《てんじよう》絵模様である。 「奥《おく》さま、ようこそ」  うやうやしく頭を下げる都も、今日は花柄《はながら》のカクテルドレスに装《よそお》っていた。 �なるほど……このホテルで結婚《けつこん》の披露宴《ひろうえん》に出席するのか�  納得《なつとく》した塔吉は、三人のあとを追ってロビーにはいっていった。これが秀介であれば、軍太を探すのに、�かれのそばへ�と念ずればいいと、すぐ気がついたことだろうに……  今日は大安なのか、広々としたロビーには、訪問着や振袖《ふりそで》、ドレスアップした若い女たちが屯《たむ》ろしていて、塔吉をどぎまぎさせた。  都は、東夫妻を宴会場に直通するエスカレーターに乗せた。 「式は滞《とどこお》りなくおわりました………間もなく披露宴がはじまりますわ」 「うん、うん」  東がうなずくと、大子がゼスチュアまじりにいった。 「さぞおきれいでしょうね」  三人の会話から察すると、東西大学の後援者《こうえんしや》のひとりが、長男を結婚《けつこん》させたらしい。東学長は、来賓《らいひん》のトップとして披露宴《ひろうえん》に招かれているのだ。  エスカレーターをのぼりつめると、宴会場専用のロビーがあって、カクテルグラスを手にした招待客たちが、群らがっていた。 「学長先生」 「よくいらっしゃいました」  つぎつぎに個性のない笑顔が、東夫妻を出迎《でむか》える。その中に、大坂部長以下共犯グループの顔も揃《そろ》っていることを、塔吉は確認した。  ボウタイのホテルマンが、客の群れを宴会場に誘導《ゆうどう》しはじめた。  プラザホテルきってのスペースを誇《ほこ》るバンケットホール、「昭和の間」だ。宏壮《そうこう》な壁画《へきが》と絢爛《けんらん》たるシャンデリアに飾《かざ》られて、披露宴はすばらしく華美《かび》——ちょっぴり事務的に開始された。  塔吉は気がつかなかったが、シャンデリアのひとつを掠《かす》めて、軍太と志摩子がホールの宙を飛んでいた。  最上階のロイヤルスイートルームから、四十階にあまる床と天井《てんじよう》を透過《とうか》して、真下へ降りてくると、ちょうどこの大広間で、にぎにぎしく宴会がはじまったのである。 �結婚披露だ……おれたちだって、結婚したばかりだからね。参考までに見物させてもらおう� �あ、花聟《はなむこ》と花嫁《はなよめ》がご入場よ�  志摩子がいうより早く、会場内の照明がうすぐらくなり、スポットにぬかれた正装《せいそう》の男女が、勿体《もつたい》ぶった足取りではいってきた。  高鳴るウェディングマーチも、花嫁花聟の耳にはろくすっぽはいっていないだろう。 �いやだあ�  と、志摩子が笑った。 �あのお聟さんの心をのぞいたら、ひどくがっかりしてるのよ� �なぜ� �ほんの遊びのつもりでつきあったのに。まだ年貢《ねんぐ》を納めるのは、早かった……� �嫁さんは、妊娠《にんしん》三か月じゃないか�  軍太もちゃっかり、花嫁の心の内を観察している。 �うまく釣《つ》りあげたって、ほくほくしてるぞ� �末長く、めでたくなるかどうか、あやしいわね� �そこへいくと、おれたちは………�  軍太が、志摩子の手を強く握《にぎ》った。 �掛値《かけね》なしのめでたい結婚だった� �……�  志摩子はだまって、軍太の手を握り返した。  ロイヤルスイートルームで味わったよろこびが、まだ体の芯《しん》を痺《しび》れさせているようだ。 �あら!� �おっ�  高い天井をただよっていたふたりの動きが、期せずして乱れた。  司会者の指名をうけて、主賓《しゆひん》である東京一郎が、祝辞を述べるために立ち上ったのである。 �あの野郎、こんなところに�  軍太が拳《こぶし》を握りしめると、東とおなじテーブルについていた顔ぶれを見て、志摩子がささやいた。 �おそろいだわ……大坂部長も、都さんも、仙田先生たちも� 「本日はお日柄《ひがら》もよく、かててくわえて昨日までじめついておりました雨も、からりとあがり、まことにおふたりの行く末を、天も祝福するかに思われます」  場数をふんだ、東京一郎のスピーチは堂に入ったものだ。 �なにが天だ�  軍太は、シャンデリアに行儀《ぎようぎ》わるく腰《こし》を下ろして罵《ののし》った。 �見てろ、生き返ったらお前らに天罰《てんばつ》を与えてやる� 「新郎のご父君には、かねてより本学の教育指導方針にご共鳴いただいております。物心両面から多大なるお力|添《ぞ》えを頂戴《ちようだい》し、おかげでわが東西大学も、順調な歩みをつづけている次第です」 �コマーシャルはよせ�  と、軍太は叫《さけ》んだ。 �軍太?�  かれのテレパシーを傍受《ぼうじゆ》したのだろう、胸のひらいた若い女のドレスを、しげしげのぞきこんでいた塔吉が、顔をあげた。 �軍太、どこにいる�  軍太も志摩子も、まだ塔吉の存在に気がつかない。 「いわば東西大学は、ご尊父が手塩にかけられたという点において、新郎の義兄弟であります。その意味で私がこの披露宴《ひろうえん》にお招きいただいたのも、東西大学学長といった、いかめしい肩書《かたがき》の故ではなく、新郎の兄貴分というおつもりではありますまいか……」  那古屋助教授が、へつらいのまじった笑声をたてた。 �調子のいいことを……お前らが、志摩子の死体を隠《かく》そうと狂《くる》い回ったのは、つまりその肩書のためじゃねえか!� �軍太さん、やめて�  志摩子が制止した。  軍太の放射する思念に、はげしい力が加わったのだ。 「あっ……」  ロボットのように行儀《ぎようぎ》のよかった客のあいだから、おどろきの声があがった。  テーブルに並んでいたシャンペンとビールとワインと日本酒のグラスが、いっせいに持ちあがって、東の背後に並んだのである。おすましの大子夫人も、冷静な都も、百戦|錬磨《れんま》のホテルマンたちでさえ、顔色を変えたが、花嫁花聟にむかって体をななめにしていた東は、気づかない。 �およしなさいな、軍太さん� �なんだって止めるんだよ………あんな偽善者《ぎぜんしや》はギタギタにしてやらなくちゃ、胸がおさまらない�  今にも四つのグラスがカクテルとなって、東に降りそそごうとした。 �学長をやっつけるのは簡単よ。でも、お嫁《よめ》さんたちに罪はないわ�  グラスが、空中で姿勢を正した。  場内の客はすべて、新郎新婦をふくめて、目をむいて東の背後を注視している。  スピーチの出来栄えが気になっていた東学長は、鳴りをひそめて耳を傾《かたむ》けてくれる熱心な聴衆《ちようしゆう》に満足した。 「ではここで、僭越《せんえつ》ながら乾盃《かんぱい》の音頭をとらせていただきます。……おや」  テーブルに体の向きをかえした東は、当惑《とうわく》した。自分のグラスが、ひとつもない。  戸惑《とまど》ったかれの手元へ、雫《しずく》ひとつこぼさず、四種類のグラスが滑空《かつくう》してきたので、学長は場所もわきまえず、 「ぎえっ」  鶏《にわとり》がしめられたような声を、マイクに向かって吹きこんでしまった。 �助け船を出すなんて、お前の気持がわからない�  と、天井《てんじよう》では軍太が頬《ほお》をふくらませていた。 �あの学長は、お前を殺した張本人なのに� �……だけど、そんな学長がリードしている東西大学へすすんで入学して、エリートコースを行くつもりだったのは、私よ� �えっ� �肩書だけでのし歩く人に、あなた腹を立ててたわね。そんな人を大勢こしらえているのは私たち。……あわよくば、自分もそのお仲間に入れてもらおうと思って� �……�  不明ということでは、軍太だっておなじことだ。現役ではいるならまだしも、三年にわたってかれは東西大学に、あついラヴコールを寄せていたのだから。  志摩子が、軍太に体を近づけた。そのポケットから、メスを抜き取る。ハンケチを払《はら》うと、刃が底光りしていた。 �死んだおかげで、そういう自分が見えてきたの。うまく生き返ることができたら……はじめからやり直すわ� �大丈夫《だいじようぶ》。うまくいくとも�  そのときになって、やっと塔吉は軍太と志摩子の霊《れい》を発見した。 �やめろ!�  大音声のテレパシーをはなった塔吉は、天井にむかってテレポートした。  いや……しようとした。 �いま死んだら、どうなるかわからねえんだぞ!�  だが、どうしたことか塔吉のテレパシーは届かなかった。  テレポートも成功しなかった。  たしかにかれの霊は消えたのだけれど、つぎの瞬間《しゆんかん》軍太と志摩子のそばにあらわれることもなく——  霊界から、かれは永遠にその姿を滅失《めつしつ》してしまったのである。     6 「意識をとりもどしましたよ」  誇《ほこ》らしげに病院の医師が、ジュン子と秀介のところへ知らせに来た。  日曜だから、急患《きゆうかん》以外の診療《しんりよう》はお休みなのだろう。がらんとしたリノリウムの廊下《ろうか》で、ふたりはその報告を聞いた。 「やった!」  不安げに、ベンチから腰《こし》を浮かせていたジュン子が、ぴょーんと飛びあがった。 「精密検査のためべつの病院に送りますが、峠《とうげ》を越《こ》したといってよろしいでしょう」 「先生、ありがとうよ」  ジュン子が涙《なみだ》ぐんでいる。  芝居ではなく、その頬《ほお》にほんものの涙が光っているのを見て、秀介は面食らったが、 (京の宮なんとかという秘書みたいに、泣くことも笑うことも忘れてしまった人よりは、かわいいや) 「吉四六!」  と、ジュン子は、ここまで連れてきていた赤犬を、医師の前で抱《だ》きあげた。 「先生にありがとうをいいな。ご主人を助けてくれた人なんだぞ」  吉四六は忠実に尻尾《しつぽ》をふって、わんと吠《ほ》えたが、医師は有難|迷惑《めいわく》という様子で、手をふった。 「礼には及びませんよ……ぼくは申年《さるどし》でして、犬と相性が良くない」  面会するならどうぞ、といってくれたので、そのあとをついてゆきながら、ジュン子は小声で秀介にたずねた。 「するとなにかい。熊さんは、みごと生き返ったのか」 「そうじゃないよ。医者は命拾いするかこのまま死ぬか、どっちかだといってたろう」 「じゃあ熊さんは、一度も死ななかったんだな……死なない者がなんだって幽霊《ゆうれい》になれたんだよ」 「死ななくても、霊界をさまようことはある……生霊《いきりよう》、リービング・スピリットというんだ」 「へーっ……熊さん、そんな幽霊になってたのか。だけど、本人だって知らない間に意識がもどっちまって……軍太に、あんたのメッセージは届いてるのかな」 「心配なのは、それだよ」  ジュン子の腕の中で、吉四六がまたわんと吠えた。  びくっとしてふたりは左右を見やる。 「幽霊が出たんじゃないか」 「軍太さんたちの?」  気味わるそうに、窓の外へ目を移して、秀介は苦笑いした。 「あそこを、牝犬《めすいぬ》が散歩していたからだ」  小さな女の子が、赤いリボンを首輪代りにしたマルチーズを連れて歩いていた。  わん、わん。  ガラス越《ご》しに吉四六が、しきりと気をひいてみせたが、高貴な愛玩《あいがん》犬は、雑種の赤犬を、みごとに無視してのけた。     7  塔吉のテレパシーを聞くこともなく、軍太と志摩子は、互いの呼吸をはかっていた。 �刺しちがえて心中か……まるで、時代劇の悲恋《ひれん》ものだな� �ロマンチックじゃないの�  思ったより志摩子は落ち着いている。 �死んで花実が咲くものかっていうけど、私たち、本気で花実を咲かせるつもりなんだから� �毒薬の方が楽に死ねるだろうが、手近になかったんで、まあ勘弁してくれ� �私も医学生のはしくれですからね�  志摩子は微笑《びしよう》した。 �メスの使い方くらい心得ているわ�  かえって軍太の方が気もそぞろだったが、恋人《こいびと》の瞳《ひとみ》をのぞきこんでいる内に、気分が澄《す》みきってきた。 �うまくゆきそうだ� �うまくゆくわよ、もちろん� �生き返っても、おれたち恋人同士だな� �あら。私たち結婚《けつこん》したのよ、今日�  シャンデリアのきらめきが、志摩子の姿の後光を形づくっている。  下界では、しばしの混乱から立ち直った東が、長々と非礼を詫《わ》びた末、もう一度|乾盃《かんぱい》の音頭を取ろうとしていた。 「では……新郎新婦のお幸せを祈って!」 �では� �では�  シャンデリアに腰《こし》かけた、シャツ姿の新郎と、破れたワンピースの新婦が、それぞれメスをつかんだ。 「乾盃!」  主賓に唱和する乾盃の声が、昭和の間いっぱいにとどろいて——  軍太は志摩子の、志摩子は軍太の、  互いの心臓めがけてメスを突《つ》きだした。  軍太はともかく、バラバラ死体の志摩子が、どこでどんな形でよみがえるというのだろう?  第六章 誰《だれ》よりも君を殺す     1  その男は、ひげもじゃだった。  顔にひげが生えているのではなく、ひげの中に顔が埋《う》まっていた。  うす汚《よご》れたベレエを頭に乗せ、得体の知れないしみのついたジャンパーを羽織って、世田谷《せだがや》の裏通りをとことこ歩いている。  ベレエの下には、狂的《きようてき》な目が光っていた。  知る人ぞ知る、といっていい。まあ大部分の人は知らないだろうが、この男は前衛美術家である。  ときどき新聞の紙面をにぎわす、文化欄《らん》より社会面むきの、奇想《きそう》天外な芸術——全身に墨《すみ》をぬってころげ回るとか、モニュメントを紙でおおい、ひもで十文字に縛《しば》るとか、そういったたぐいの常人にはうかがい知れない美を信奉《しんぽう》する男のひとりが、かれであった。  偶然《ぐうぜん》といおうか、必然といおうか、かれが新宿のさる酒場でへべれけになり、夜明け近くまでねばってからほうりだされたとき、目にとまったのがあのつぼである。  ドアの取れた冷蔵庫や、タイヤのない自転車にはさまって、そのつぼは鎮座《ちんざ》していた。  ひと目見て、男の美的感覚はわなないた。なんといういびつな造型であろうか。なんというグロテスクな色彩《しきさい》であろうか。  かれはそこに、既成のあらゆる美に対する反逆を発見した。  ふるえる手で——むろんそれは、アル中のためにふるえるのだが——、男はつぼを拾いあげた。  粗大《そだい》ゴミといっしょに闇《やみ》へ葬《ほうむ》り去るには、あまりに勿体《もつたい》ないできばえであった。  のみならず、つぼの首から棒を突きいれてみると、そのつぼは首の長さだけしか穴があいていないことを発見した。つぼの主体に、なにかが詰《つ》まっている……。  なんとこのつぼは、花器としても酒器としても、まったく役に立たないのだ。  道理で、見かけより数倍も重かった。  男は、そのつぼを抱いて歓喜した。 「かくまで実用性を拒否《きよひ》したところに、アーティストの美に奉仕《ほうし》するかたくなな姿勢が読み取れる!」  きのう一日、かれはつぼとともに新宿を徘徊《はいかい》した。  夜おそく、顔なじみの女の家へころがりこんだが、今朝になって、女の金切り声で目がさめた。 「なによこの花瓶《かびん》! コップ一杯《いつぱい》の水もはいらないわ!」  見おぼえのあるつぼが茶箪笥《ちやだんす》の上に飾《かざ》られていた。茶箪笥は、つぼから溢《あふ》れた水でびしょびしょになっていた。  男はおもむろに、そのつぼは花瓶ではなく高貴な芸術であると告げたが、女の腹立ちはおさまらなかった。 「珍《めずら》しくみやげを持ってきたと思ったから入れてやったのに」  憤然《ふんぜん》として男は女の家を出た。  それから友人の家に押しかけ、あまり歓迎されていないことを知りつつ、ウイスキーを無心し、チュウハイをひっかけると、日中のことではあり快適に酔《よ》いが回ったので、やっと家路につく気分になった。  依然《いぜん》として男は腕の中につぼを抱《だ》きしめていた。 「まるで」  と、かれは不透明《ふとうめい》な声でひとりごちた。 「女のような肌《はだ》ざわりだ……それも、なかなかの美人だぞ」  少くともこの男が、芸術家に不可欠なある種の直感をそなえていたことはたしかである。     2  トラックの若い運転手が、あくびを噛《か》み殺しながら、ハンドルを握《にぎ》っていた。  ふらりとセンターラインが近づいて、若者はあわててまばたきした。対向車のボディが陽炎越《かげろうご》しのようにゆらめいて見える。 「しっかりしろよ」  運転席の背後にかかったカーテンが、細くひらいた。まぶしそうに目をしょぼつかせた、年かさの男が仮眠《かみん》のスペースで体を横にしたまま叱《しか》りつけた。 「若いんだから女と遊ぶなとはいわねえが、とんぼ返りのときぐらいつつしんだらどうだ……夜なべつづきじゃ参っちまうぞ」 「るっせえな」  若者は、手の甲《こう》で唇《くちびる》のあたりをこすった。  よりによってこんな口うるさい年よりと組まされるなんて……ついてねえや。てんでついてねえ!  ごろごろとなにかがころがる耳ざわりな音がした。 「またあの荷物だ……鉄材のあいだにはさまっていたんだって?」  と、中年の運転手がシャツの上からへそのあたりをぽりぽりとかきながらぼやいた。 「つまらねえものをありがたがって……物好きにもほどがあらあ。捨てっちまえ、捨てっちまえ」  こともなげにいわれて、若者はむっとしたらしい。 「だれがくそ」 「なにを」 「おれのへやを飾《かざ》るのに、ぴったしじゃねえか。捨てられてたまるかよ」 「よくいうぜ」  中年が歯をむきだした。 「いつも安酒を飲んでるてめえが、ブラック・エンド・レッドだと。カティ・ラークだと。笑わせるんじゃねえや!」  かん高い声をたてて、カーテンが閉じられた。 「おれは寝《ね》るよ」 「寝ろ寝ろ。くたばれ」 「荒《あ》れるのはいいが、事故だけは起こすなよ」  またごろごろと、重いものが空《から》っぽになった荷台をころがっていく。  口喧嘩《くちげんか》の相手を失って、若者はいらいらとハンドルを回した。フロントガラスからかっと陽《ひ》が照りつける。カーラジオが、気温の急|上昇《じようしよう》を告げていた。春は、もう終りだ……今年の夏は足早にやってくるそうな。     3  長年のあいだ、道路と五十|坪《つぼ》ばかりの土地のあいだをへだてていた塀《へい》が、今日はじめて取り払われた。  形ばかりの塀で、いたるところに穴があき、板も外れていたから、子どもは平気で通学路に利用した。ちょっと地主が目をはなすと、ボールやバットを持ちこんで、運動場のつもりで飛び回った。  根負けした地主が、町内の有力者と話し合った結果、一坪菜園として近所の有志に貸すことになった。  戦前はいざ知らず、世田谷といえば都内有数の高級住宅地をかかえている。むかしを偲《しの》んで土に親しもうにも、ミニ開発の建売住宅居住者や、マンション族では、肝心《かんじん》の庭がない。  仕方なく日曜ごとに遠出して、猫《ねこ》の額《ひたい》ほどの畑を耕し、手作りの大根や茄子《なす》を収穫《しゆうかく》するというのが、一見高級住宅に住む人びとの実態だった。  遠|距離《きより》をものともしないのだから、町内に菜園ができるのなら、これはもう希望者|殺到《さつとう》である。千客万来の熱っぽさに煽《あお》られて、地主は急遽《きゆうきよ》予定をくりあげ、今日の日曜に鍬《くわ》入れを行うことになった。  折柄、盛夏を思わせる陽気である。ご町内の奥《おく》さま方、あるいは奥さんに尻《しり》をひっぱたかれた亭主《ていしゆ》たちが、ぞろぞろと菜園に集まった。  菜園といっても、耕す前だから要するにただの空地だ。マンション住まいのニューファミリーから見れば噴飯《ふんぱん》ものだけれど、先祖代々この土地に住みついている地主としては、手続きを省くわけにいかないのだろう、しめ縄《しめ》を張り神主を呼んで、ものものしいセレモニーを執行《しつこう》した。  迷惑《めいわく》なのは親に連れられてきた子どもたちである。神主がかしこみかしこみ祝詞《のりと》をあげている最中に、すっかり退屈して隅《すみ》から隅まで駈《か》けめぐる。  はじめはひとさまの手前、子どもを制止していた母親たちも、その内、子どもをうっちゃらかして、おしゃべりに夢中《むちゆう》になった。 「くじびきだったそうですよ、この菜園」 「まあ、そうなんですか……そりゃねえ、ひとり三坪としても、十五人ぶんくらいですものねえ」 「私はてっきりここにマンションが建つと思ってましたわ」 「それがね、この土地のすぐ北にアパートがいく棟《むね》もございますでしょ。日照権がからんで、おとなり同士|暮《くら》しにくくなるのはいやということで……」 「そうそう、現にすぐそばのグランド・セタガヤだって大|騒《さわ》ぎ」 「菜園だから緑もふえることですし」 「だけどいやですわ。畑ができると、このへんの道にミミズが這《は》い出すんじゃないかしら」 「どの区画も日あたりはよろしいけれど、土が固かったり柔《やわ》らかかったり、多少の不公平はできますでしょうね」 「ほら、あの道に沿ったところなんて、すっかり掘《ほ》り返されてますわよ」 「まあ。まるでだれかが耕したあとみたい……」 「なにか埋《う》めたのかしら」 「きのうまでは塀《へい》があって、気がつきませんでしたね」  走り回っていた女の子のひとりが、いま話題になっていた土の盛《も》りあがったところで、足をとられた。 「だからいったじゃないの」  出おくれた小言をくりかえしながら、若いママが女の子を抱き起こし——あらっと声をあげた。 「ちょっと、ちょっと」  手招きされて、おなじ年|恰好《かつこう》の女性が二、三人近づいた。 「どうかなすって」 「妙なものが埋めてあるのよ」  と、若いママが地面を指さした。よほど急いで埋めたのだろう、その上を十分におおうほど土がかけてなかったので、黒っぽい箱の一部がのぞかれた。     4 「たしかにそいつが、意識をとりもどしていたら……どうすればいいんだろうね」  北見が元気のない声で、意見を聞くというより、ひとりごとのように口に出した。 「決まってますわ」  と、都が背筋をシャンとのばして、前方を注視しながら答えた。  ハンドルをとっているのは、彼女自身の車だ。国産の中古で、まことにつつましい買物だったが、都はそれを連日のように磨《みが》きつづけて、新品以上に見栄えのするマイカーに仕立てあげた。  口のわるい大坂によれば、 「あの女は、男でも車でも上役でも、自分の好みに合うように躾《しつ》けるのがうまい」  という。  免許《めんきよ》を取得して十一年、無事故運転を誇《ほこ》る彼女でもある。女性に少いメリハリのきいたドライビングで、もたつきがちな高速道路への進入も、あざやかなものだ。  その都が北見とふたり、車を世田谷へ走らせているのは、披露宴《ひろうえん》がはじまって間もなく、熊本塔吉の容態がもち直したという知らせを警察から受けたためだ。  ——昨夜、塔吉の事故を目撃した仙田と北見は、あくまで偶然《ぐうぜん》を装《よそお》って、警官たちに名乗りをあげた。 「我々も医者です。なにかのお役に立つことがあれば」  どうせ目撃者としてあれこれ聞かれるのなら、と先手を打った上で、あわよくば塔吉の身柄《みがら》を手中に納めようと伏線を張ったのである。  目論見《もくろみ》は成功し、塔吉が収容されていた病院から、精密検査を東西大学の林谷《はやしや》脳外科に依頼《いらい》したいとの打診があった。  仲介の労をとった北見は、しかし、塔吉が明らかに回復にむかいつつあることを聞いて、驚愕《きようがく》した。  回復した塔吉が、あの夜——軍太を、大勢でよってたかって毒殺したことをしゃべったら!  そう考えただけで、北見の背筋を冷汗《ひやあせ》がしたたり落ちた。  こっそり都に耳打ちすると、彼女も顔色を変え、披露宴を中座することにした。  塔吉が意識をとりもどしたというが、それはどの程度のことか……それによって、塔吉をいつまでに処理しなくてはならないのか、おのずとタイムリミットが決まってくる。  そのためには、まず塔吉を、見舞《みま》いと称して病院へたずねるべきだと、都は主張した。 「事故の目撃者である北見先生がごいっしょしてくだされば、見舞の名目がたちますわ。すぐ、私の車で参りましょう」  こうして、東が主賓《しゆひん》として祝辞を述べているころには、都と北見は、車を西へ向けてころがしていたのだ。 (この女……あるいは、東大子《あずまだいこ》夫人と同席するのがいやだったのかもしれんな)  プラスチックのように陰翳《いんえい》の乏《とぼ》しい横顔に目をやって、北見がそんなことを考えていたとき、都が正面に向かったままいった。 「それともなにか、北見先生にお考えがおありでしょうか」  都にいうわけにいかない考えを、ずばり見抜《みぬ》かれたような気がして、北見は口ごもった。 「殺す……というんだね、やはり」  工事中の標識がちらと見え、車が大きく上下に震動《しんどう》した。 「症状《しようじよう》によっては、殺さなくてもかまわないでしょう。植物人間にするとか、精神障害を起こさせるとか」 「おそろしいことをいうよ、きみは」  北見がほうとふとい息を吐《は》いた。 「そうですか」 「久米くんの始末を、みんなでひきうけることにしたのも、提案者はきみだ……軍太という若者を殺したのも、きみだ」 「私は、学長先生のためを思って、いたしました」  都は動じる風もない。 「学長先生のためになることは、北見先生、あなた方のおためでもありますのよ」 「その学長先生だが」  北見の口調は皮肉だ。 「きみは、大子夫人と別れてきみと結婚《けつこん》するよう、学長先生に迫《せま》っているというが」 「…………」  ほんの少し、視線がゆらいだ。 「そうなると、学長先生のためとはイコールきみのため……」 「学長先生に、あんなお飾《かざ》りのような奥《おく》さまは似合いませんわ。そうお思いにならないの」  都が強い口調でいった。 「きみが、いつか学長夫人になる可能性はみとめる。だから、あの鼻っ柱の強い大坂部長でさえ、きみをたてているんです。だがそれは……」 「私の力ではなく、学長先生の力だとおっしゃるのね、わかっていますわ。だからこそ私は、学長先生と一体になりたいのよ」 「そして、いよいよ我々を完璧《かんぺき》に鼻面とって曳《ひ》き回したい。女に於《お》ける権力欲の典型だな」 「なんとでもおっしゃってください」  都の唇《くちびる》のあいだから、白い歯がほんの少しこぼれた。  ——この女、笑っている。  そう思うと、北見は腹に据《す》えかねた。小癪《こしやく》な彼女《かのじよ》の鼻を明かしてやりたくなった。 「学長先生のためが自分のため。……それについては、きみも我々も立場がおなじなんだから、死体処理の方法は、不公平過ぎたと思うよ」 「そうかしら」 「そうとも。……なぜならきみは、まったく手を汚《よご》していない」 「まあ」  都が、またかすかに笑った。 「そういえばそうですわね。でも、もうすんだことだもの。手おくれですわ」 「手おくれ。……私は、まだ間に合うと考える」  北見は、都の横顔にむかって笑い返してやった。  それがいい、いまこの場で話すことにしよう。  どうせ急いで話さねばならぬことなのだ。それも今日の内に……話すきっかけができて、北見はむしろ感謝した。 「間に合う? なんのことでしょう。わかりませんわ」  都が眉《まゆ》をひそめた。 「つまりだね。……ゆうべみんなが報告し合った死体の始末についてだよ。きみは、あれをほんとうのことだと信じているの?」 「北見先生」  冷静さを保ちきれず、都が声を高めた。 「ではうそだとおっしゃいますの」 「全部が全部うそじゃないでしょう。……たとえば大坂先生の場合、私は真実に近いとにらんでいるよ。  もっとも、豪傑《ごうけつ》めかして話した宿題によるヒントの件はどうですかね。  ふとっ腹に見せようとして、ちょいちょいボロを出す先生のことだ、必死になって死体|隠匿《いんとく》のアイデアをひねり出したにちがいない。さもなければ、どうしてそう都合よく、大量のプラスチック粘土《ねんど》や塗料《とりよう》が、手元にあるものか。  仙田先生のケースもね、ウイスキーのビニールおもちゃに隠《かく》したところまでは、ほんとうです。だがそれを、海に沈《しず》めることはできなかった。  というのは今日、先生に内緒《ないしよ》で奥《おく》さんの悠子さんから、私のところへ電話がかかってきた。 『仙田に女がいるのではないか。いるのなら教えてほしい』  おどろいたね。たしかに私は、仙田先生の下で長いあいだ働いている。先生については、表も裏も隈《くま》なく知っているつもりだ。その私の目から見て、仙田先生の愛妻ぶりは、百パーセント非のうちどころがないものだった。  なのに奥さんは、女が存在すると疑っていた。 『いったいなぜ、そう思ったのか』  すると奥さんは、こういった。 『私が欲しがっていたルームアクセサリーを、あの人は私に渡《わた》してくれなかった。愛情がさめたにきまってる』  ルームアクセサリーというのは、むろん例のビニールボトルです。  それに執着《しゆうちやく》していた奥さんは、仙田先生にだまって、直接銀座のバーへ電話して交渉《こうしよう》したというんですな。  すると先方では、とっくに仙田先生にお譲《ゆず》りした、と答えた。  意外に思った奥さんが、仙田先生の車を調べたところ、ボトルが二本あらわれた……あらわれるはずだ。前夜まで大学のロッカーにはいっていたそのボトルは、久米くんの両手を飲まされて、車のトランクへ移されていたのだから。  仙田先生にとって、まことに不運なタイミングだった」 「では……腕《うで》はどこへ行ったんです」  問い返す都の声がふるえた。 「どこなのか、奥さんにもわからない。……仙田夫妻は、葉山へ出かける途中陸橋の上で口論をはじめたそうですな。  奥さんは、ルームアクセサリーを私に渡せという。  仙田先生としては、久米くんの両手を自分たちの寝室《しんしつ》に飾《かざ》られたんじゃやりきれないから、いやだという。  先生が日頃《ひごろ》になく強情なので、若い奥さんとしては、邪推《じやすい》した。  とどの詰《つ》まり、ボトルを奪《うば》い合う形となって、手がすべった。  ビニールボトル——悠子夫人の目にはルームアクセサリーだが、仙田先生にとっては死体の腕、その二本が落ちたのは、たまたま陸橋の下を通りかかったトラックの荷台だったといいます。  積み荷の鉄材のあいだにがっちりはまりこんで、あれよという間にトラックは走り去ってしまった」 「仙田先生、なぜそれを正直に話してくださらなかったんでしょう」 「正直に話して、なんになる?」  助手席の北見は、話し疲《つか》れたように足を組んだ。  日曜の|梅ケ丘《うめがおか》街道は渋滞《じゆうたい》もなく、車を走らせるのに快適だ。とはいえ、同乗者も用件も、およそ快適とは縁《えん》遠いものであったが。 「仙田先生は、愛する悠子を、こんな血なまぐさい話の中に登場させたくなかったんだろう。  男の見栄というやつもあるな……四人が四人、英知をしぼって大胆《だいたん》不敵な死体|遺棄《いき》をやってのけた。そうかっこつけてみたい稚気《ちき》がのこっているのさ、男にはね。  トラックのナンバーをおぼえているならともかく、探す手がかりがないのに、真相だけ打ち明けても、みんなを不安におとしいれるだけだ。  そう判断して、あえて後半をフィクションにしたんじゃないか、仙田先生は。私だって、奥《おく》さんの電話を貰《もら》わなかったら、今でも久米くんの両手は、葉山の海に眠ったと信じているだろう」 「那古屋先生の場合は?」  都のハンドルを取る手が、小刻みにふるえていた。  暑い。窓を閉め切った車内の空気が、むっとするようだが、都は窓を下ろすことも念頭にないみたいだった。 「先生自身から説明を受けたわけじゃないが、常識的に考えて、むつかしいと思うよ」 「マンションの工事場へ忍びこんだのでしたね」 「そう。……そこまでは、できない相談じゃない。だが、コントラバスのケースといえばかなりの大きさだ……そんな大きな物が穴の底に落ちているのに、だれも気がつかないのは不自然過ぎる。  それとも作業員全員が、空の雲にみとれて、穴を見ずにコンクリートを流しこんだというのですか。  つくりごととしか思えないな」 「では、実際には死体は……」 「それは、先生に聞かない限りわからんことだ。  死体をケースに入れたのは、事実だろうね。先生が、最近コントラバスを買い替《か》えたことはたしかだから。  想像力ゆたかといいかねる先生だから、案外どこかの地面に穴を掘《ほ》って、埋《う》めたというのがオチだと思うよ」 「北見先生」  都がはじめて、助手席を見た。 「あなたのお話も、うそなんでしょう」 「話として、おもしろ過ぎたからな」  北見は、おもしろくもなさそうに笑った。 「あそこへ坐《すわ》ったときには、私は、正直なところをいうつもりだった……ところがどうです。だれもかれも、みなさん楽々と死体を片付けているじゃないか。  対抗上、私も勇み足をしてしまった。あそこでヘマをすれば、ほかの三先生は一段ずつ出世のステップをのぼっても、私だけカヤの外になりかねない」 「おかしいと思いました……部外者が勝手にはいりこめるような工場でつくった弁当じゃ、あぶなくて食べられないわ」 「ごもっとも」  北見は、けろりとして賛意を表した。 「これはある大手の弁当会社だが、外から工場へはいるためには、消毒された服、帽子、靴《くつ》にはきかえ、手を三度薬で洗ったのち、手袋《てぶくろ》をはめてからまた三度、薬で洗い直してやっとパスするというんだ……むかしの意識で、弁当の町工場かとなめてかかってはいかん」 「法螺《ほら》話をされたのは、先生ですよ……いったい、足はどこにあるんです」 「そう、それを特にあなたに話そうと思っていた」 「私に?」 「なぜかというと、ゴルフバッグに入れた足はこの車のトランクにはいっているんでね」  がりがりといやな音がした。  車が横へすべって、歩道の縁石《えんせき》をこすったのだ。 「どういうこと、それは!」 「死体処理の責任を公平に分担しようというわけだ。だからといって、私が責任を回避《かいひ》する意味にとらんでほしい……あいにくほかの三先生のようにアイデアが浮ばなかったので、きみの智恵《ちえ》を借りたかった、それだけだ。指示してくれれば、そのように私が行動する……共同責任の線でゆこうじゃないか。ぐずぐずしてはいられん。いくら防腐《ぼうふ》処理がしてあっても、こう急に暑くなられたのでは……考えてくれるね、京の宮くん」  都は仏頂面だ。 「考えるもなにも……まだ面食らっている最中ですわ。事故を起こさないのがみつけものよ!」  北見がロードマップをひろげた。 「病院は近いな。そろそろ、熊本塔吉なる人物の処理を考えなきゃならんぞ」  いくら都がクールな女でも、頭が痛くなってきたのは、無理からぬことだった。     5  ひげの前衛美術家が、後生大事につぼをかかえて歩いてきた。 「ちっ」  かれは、いまいましげに空を仰《あお》いだ。 「いやに暑くなってきた」  その異装《いそう》を見やって、女の子が、若いママにささやいた。 「おかしな小父《おじ》さんがいるよ、ママ」  ママはそれには答えず、轟々《ごうごう》と地ひびきたてて走ってきたトラックをにらんだ。 「いやあねえ。このごろはこんな裏道にまで、大型がはいってくるんだから」     6  ごろごろとビニールボトルが荷台をころがる音に、変化があったのかもしれない。なんとなく気配を感じて、カーテンのかげから中年の男が、声をかけた。 「おい! ちゃんとハンドルとってるんだろうな」 「あ? ああ」  若い運転手は、あわてて目をあけた。 「居眠《いねむ》り運転は願い下げだぞ」 「わかってら」  不機嫌《ふきげん》に答えたものの、内心かれはちぢみあがっていた。ヤバい、ヤバい……いつの間にか垂れていた涎《よだれ》をごしごしこすって、かれは前方を注視した。  若い女が数人、こちらに向かっておケツをふっている。 (な、なにしてやがるんだ)  やがて状況《じようきよう》がのみこめた。女が空地を耕しているのだ。この近所の主婦たちだろう。幼稚園児くらいの子どもを連れて、堀《ほ》りかえしている婦人もいた。 (畑仕事かい……ひでえ腰《こし》つきだ)  親に従って耕作に励《はげ》むのがいやで、田舎《いなか》を飛びだしてきた運転手だったから、彼女らの気持がわからない。 (物好きだね)  視界の端《はし》っこに、二、三人の男女が集まっていた。なにやら大きな黒い箱をはさんで、合議している。凸《とつ》という文字を縦に細長くのばしたような箱だ。 (見たことがあるぞ……あれはえーと、なんとかいう楽器の容《い》れ物だ)     7  一坪菜園の片隅《かたすみ》では、地主と、発見者の若夫婦が、ふしぎそうに出土品をいじくり回していた。 「コントラバス!」  地主が、よく禿《は》げた頭の汗《あせ》を拭《ふ》きながら、目を丸くした。 「なんですか、そりゃあ」 「楽器ですわ」 「バイオリンの親玉みたいな」 「ははあ……しかしそんなものが、なぜここに埋《う》まっていたんですか」 「見当もつきませんよ」  主人はむずかりだした女の子の手をひいて、頭をごしごしとかいた。まったくもう、土に親しむのは子どもの情操教育だなんていうから、ゴルフをことわって出てきたのに、女房のやつ面倒《めんどう》なものをみつけやがった。 「からっぽじゃないわね」  若いママは、ケースをゆすってみた。 「重いけど、ベースがはいっているのでもなさそうよ。いやにごとごというんだもの」     8  なんという頼《たよ》りない男たちだろう!  ハンドルを捌《さば》きながら、都はやり場のない怒りをもてあましていた。  こうなれば、仮に塔吉を殺す破目になっても、男はひとりのこらずあてにできない。 (いいわ、私が殺す)  今ここで弱腰《よわごし》になったらおしまいだ……目撃者である塔吉さえ殺せば、すべてはなかったことになる!     9 「吉四六、待ちな!」  ジュン子が呼んだが、名犬——人間に不可知の幽霊《ゆうれい》を探りあてるのだから、名犬と呼んでも苦情はこないだろう——吉四六は、すたこら病院の塀《へい》に沿って走ってゆく。  塔吉は思いのほか元気だったが、まだ長時間の面会は無理だ。  秀介の案じていた、軍太へのメッセージはどうやら失敗らしかった。 「すまん。こんなに早く目がさめるとは思わなかったんだ」  怪我《けが》人に詫《わ》びられては、秀介もそれ以上追及するわけにゆかない。軍太の生死とはべつに、塔吉が東西大学へ送られるというのも、不安な材料だ。  ジュン子と相談して、ふたりで東西大学まで行くことにきめたが、吉四六がいるのでは病院の車に同乗を頼《たの》めず、表へ出てタクシーを拾うことにしたのである。 「おうい、吉四六!」  秀介の声も聞えないようだ。  小手をかざして、ジュン子が笑った。 「さっきの牝犬《めすいぬ》がいたんだ。あいつもがんばるじゃないか」  赤いリボンのマルチーズが、秀介の目にもちらと映った。  そのとき、横あいから一台の小型車が飛びだしてきた。 「あぶない!」  ジュン子が怒鳴《どな》った。  覚束《おぼつか》ない足どりのマルチーズは、車の前で立ちすくんだかのように見えた。  車を運転していたのは、都である。  いつもの彼女《かのじよ》なら、たとえ相手が小さな犬でも、気がつかないはずはない。  だが今日は、条件がわるかった。  塔吉をどうすれば安全に殺せるか、その考えで頭が一杯《いつぱい》になっていて、わずかに反応がおくれた。  マルチーズの悲鳴らしいものが聞え、つぎの瞬間《しゆんかん》、都の視界に赤い犬がぶつかって消えた。  都は知らない、だがそれは吉四六だった。自分が好意を寄せていた犬に、乱暴を働こうとした人間へ、敵意をむきだして飛びかかっていったのだ。 「吉四六!」  走りながら、ジュン子と秀介が絶叫《ぜつきよう》した。下水にころげ落ちたおかげで、マルチーズは無事だ。飼《か》い主の子どもがあわてて駈《か》けて来るのが見えた。  だが吉四六は……  都のフロントガラスに血痕《けつこん》をのこして、名犬はアスファルトの上に横たわっていた。  もっとも秀介たちは、そのときすぐに吉四六の死を確認できたのではない。  不吉な急ブレーキの音につづいて、女たちの悲鳴、更にマシンとマシンのぶつかりあう大音響《だいおんきよう》が起こった。  吉四六の襲撃《しゆうげき》で気が転倒《てんとう》した都の車は、カーブを切ったとたんに、そこへ突《つ》っこんできたトラックと、正面|衝突《しようとつ》を演じたのである。例の、前衛美術家のすぐそばで。 「うわーっ」  さしものアーティストも、眼前に迫る鉄の巨塊《きよかい》に、肝《きも》を宙に飛ばした。肝といっしょにつぼまで飛ばしたのは、かえすがえすも残念なことだった。 「あぶない」 「逃《に》げろ」  地主も若夫婦も、横っ飛びに難を避《さ》けたものの、足のない悲しさでコントラバスのケースは、からみあって砕け、燃えあがった二台の車に蹂躪《じゆうりん》されつくした。  炎の中に、二本のビニールボトルがあった。  トランクの中には、ゴルフバッグがあった。  衝突寸前、トラックから飛び降りた運転手ふたりと、助手席からほうり出された北見が、茫然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。  都はとうとう車から脱出《だつしゆつ》できなかった……二度と彼女は、死体処理だの殺人の方法に、頭を悩まされずにすむようになったのだ。 (京の宮くん……)  死者にはすまないが、心のどこかでほっとしたような気もする。彼女に結婚《けつこん》の約束《やくそく》をさせられた東学長も、おなじ気持かもしれない。  消防車が駈《か》けつけて、火炎《かえん》は急激《きゆうげき》におさまりつつあった。二台のころげこんだ場所が、一|坪《つぼ》菜園の空地だったことも幸いした。  いずれにせよ、この騒動《そうどう》を東学長に告げねばならない。披露宴《ひろうえん》が終り次第、共犯グループは東家へ集まることになっていたのだ。  都は死んでも、志摩子と軍太を殺した罪はのこる……その償《つぐな》いを考えると、暗澹《あんたん》たる気持であったが、こうしてはいられない。  電話を探そうとふりむいて——  北見は、あっと立ちすくんだ。  吉四六の死体を抱《だ》いて、ジュン子と秀介もしばらくは身動きできなかった。  まるでビリヤードの玉のように、数分前まで予想もしていなかった大事故が、発生したのである。 「あの車……だれが乗っていたんだろ」 「ぼく、見おぼえがあったよ」 「ほんとうか」 「うん。京の宮都……パパの秘書の車だった……あ! 北見さんがいる」  もくもくとあがる黒煙をバックに、北見が凝然《ぎようぜん》と立ちつくしていた。 「きっと、京の宮さんに乗せてもらってきたんだ」 「あいつも、人殺しの仲間だろう」  ジュン子は、敵意をこめた目でにらんでいたが、ふと、 「おい……北見の前に立ってるの、だれだい」 「はてな」  弥次馬《やじうま》が人垣をつくりはじめたので、よく見えない。  ばらばらと駈《か》け出していった秀介は、弥次馬のあいだから、顔をのぞかせて——「わあっ」と叫《さけ》んだ。 「し、志摩子さん!」  そう、北見の前にはあの久米志摩子が立っていた。破れたワンピースを、恥《は》ずかしそうに押《おさ》えながら。 「秀介くん、ありがとう。あなたのヒントのおかげで、私……生き返ったのよ!」  志摩子の手には、軍太の父の形見であるメスが光っていた。     10  がたがたと、テーブルの上の灰皿《はいざら》が鳴った。  ポルターガイストの惨状《さんじよう》がなおのこる、東西大学の応接間である。  灰皿ばかりか、テーブルも揺《ゆ》れはじめた。アームチェアのひとつが、貧乏《びんぼう》ゆすりして、少しずつ位置を移動してゆく。  又しても騒霊《そうれい》現象か——それにしては、へんだ。よく見ると、テーブルや椅子《いす》が揺れているというより、床《ゆか》そのものが軋《きし》んでいた。  カーペットは外されたままであるし、床だって応急に破れた部分を打ちつけただけなので、なに者かが下から力まかせに突《つ》きあげている様子がよくわかった。 「うおう!」  気合がひびくと、床板の一枚に亀裂《きれつ》が走った。  その亀裂から突き出されたのは、人間の指だ。  指と指に力がこもると、めりめりと猛烈《もうれつ》な音が起こって、床が剥《は》がれた。  立ちあがったのは、軍太である。 「ぶうっ……ひでえもんだ」  土まみれの姿で、かれは頭を押えた。 「頭突《ずつ》きしか、力が出せなかったからな。とんだ場所に埋《う》めてくれたよ」  疲《つか》れ果てた様子で、軍太はアームチェアにどさりともたれたが——すぐ、肝心《かんじん》のことを思い出して、飛びあがった。 「志摩子! あいつ、どこで生き返ったんだろう」 「ここにいるわ」  という声が聞えた。 「志摩子? どこだ!」 「お帰り、軍太先生」  これも聞きおぼえのある声がして、学長室に通ずるドアがひらいた。 「秀介! きみも来てくれたのか!」 「たった今だよ。軍太さんの死体が埋まってる場所を、北見先生から聞いて、飛んできたんだ」  秀介に並んで志摩子が立ち、その後ろには面目なげな北見が、顔を伏《ふ》せていた。 「北見……あんた……」  軍太は、自分を殺した一味に、どう対応していいのかわからない。 「北見先生から、知ってるだけのことを教えて貰った」  秀介はにこにこしている。 「おかげで、バラバラの死体だった志摩子さんが、なぜあの場所で復活できたか、だいたい見当がついたんだ……行こう、くわしいことは途中で話したげる」  手をひかれて、軍太はまごついた。 「どこへ行くんだ」 「ぼくのうちだよ。そこに、パパたちが集まっている……どうやらぼく、殺人犯の息子《むすこ》にならずにすみそうだ」  この優等生が、こんなに手放しでうれしそうな顔をすることは、めったにない。  突っ張りやがって、こいつめ。……東京一郎が志摩子を殺したと聞いても、動じなかったお前が。ほんとのほんとは、おなかの中でワーワー赤ん坊《ぼう》みたいに泣いていたんだろう。  いいとこあるぞ、秀介。  思わずにんまりした軍太に向かって、 「このーっ」  え?  なんだ?  これも聞いたことのある声だが……  そう思ったときは、手おくれだ。  後頭部に——いつぞやマネキンと抱擁《ほうよう》してぶつけたおなじ場所に、強烈《きようれつ》な打撃《だげき》を食らって、軍太はぶっ倒《たお》れた。 「いて、て、て……」  やっとの思いで失神を免《まぬか》れた軍太、首をねじると、学長のデスクの上に立って、ゴルフのアイアンを構えているジュン子が見えた。 「きさまか!」 「はん。これがゆうべのお返しさ」  ぽいとアイアンをほうり出し、手をはたきながら、 「そうっと手加減して撫《な》でてやったんだ。これに懲《こ》りたら、以後女を手ごめにするのはやめときな」 「な……なにを」  いやがる、とりきみたかったが、声を出したとたんに、頭のてっぺんへ痛みがひびいたので、うなるだけでやめることにした。     11  北見講師を先に立てて、軍太と志摩子が東|邸《てい》へ乗りこんだのを見て、東・大坂・仙田・那古屋の教授陣が、どんなにおどろき、腰《こし》を抜かしたかは、説明の要もあるまい。  ことは秘密を要するので、気をきかせた秀介は、なにも知らないママを誘《さそ》って買物に出ることにした。以前から大子夫人は、秀介に新型の万年筆を買ってやりたがっていたのだ。  駅前の文具店で、最高クラスの品を、大子は買い与《あた》えた。 「ママはね、秀ちゃんのためなら、お金|惜《お》しくないのよ。できるだけ上等の品物を買ってあげますからね、その代り一所|懸命《けんめい》勉強しておくれね」  いつもの秀介なら、 「弘法《こうぼう》は筆を選ばず、高いものを買えば成績が良くなるなんて考えは、甘《あま》いよ」  と突き放すところだが、今日は素直に頂戴《ちようだい》することにした。 (パパが殺人犯になるところを救って、ママが離縁《りえん》されるのを助けたんだから、これくらいの褒美《ほうび》は当然だよ)  おっと……理由はほかにもあった。 (ママ、ママのなんにも知らない内に、ぼくおとなになったんだ。だけどぼくは、ママから見れば、きっといつまでも子どもなんだろうな。だからぼく、子どもっぽく甘ったれるよ。……ありがとう、ママ)  いま風のガキの、いやらしい演技という奴《やつ》はいえ。子どものくせにおとな、おとなのくせに子どもの秀介は、文具店を出るとケーキをおねだりした。 「仕様がないわねえ、その年になってもおやつなの」  とかなんとかいいながら、大子夫人は、いそいそとお洒落《しやれ》なティーラウンジへ秀介を誘った。  香り高いティー。  かろやかに流れる音楽。  ほのかな甘さを楽しみながら、秀介はしばしぼんやり頭を休めていた。  まる二日、忙《いそが》しかったなあ……人ひとりと、吉四六が死んだのは残念だけど、でもうまく納まった方だと思うよ。 「秀ちゃん」  と、大子夫人が声を低めた。 「なんだい」 「さっきの……岩手先生が連れてきた女の人……どういう人」 「軍太先生のお嫁《よめ》さんさ」 「まあ、そう。へえ……あの先生にしては、大した美人だわ。それで、パパに仲人|頼《たの》みにいらしたの」 「ちがうよ。あのお嫁《よめ》さん、パパの大学へ通っていたんだけど……」 「それじゃ、頭もいいお嬢さんなのね」 「でも、東西大学やめるんだって」 「なぜ。可哀相《かわいそう》に、学費がつづかないのかしら。ああ、だからパパのところへ来たのね。なんとかつづけさせてほしいって」  わかってないなと、秀介は苦笑する。 「あべこべだよ。なんとかやめさせてほしいって頼みに来たんだ」 「どういうこと」 「来年の春には、軍太先生もよその医科大学受けるから……お嫁さんも、先生とおなじ大学へはいり直すつもりだよ」 「ま、もったいない!」  大子夫人は、首をふった。 「東西大学みたいな一流校を中退して……若い人の気持は、わからないねえ」  そりゃあママにはわからないだろうけど。……と、秀介は心の中でつぶやいた。 「ぼくはふたりとも、りっぱだと思うよ。志摩子さんは、医師の資格をとったら、ふたりで早池峰の麓《ふもと》で診療所《しんりようじよ》をひらくつもりなんだ」  エピローグ スナック・オカルティシズム 「いらっしゃい!」  軍太が「吉四六」ののれんをくぐると、塔吉の威勢《いせい》のいい声が飛んだ。 「なんだあんたか」  正反対に、無愛想を接着剤でかためたような挨拶《あいさつ》を送ったのは、ジュン子である。  ゆきがかり上、塔吉が入院しているあいだ「吉四六」はジュン子がとりしきっていた。意外に彼女の家庭料理の腕《うで》が好評で、ジュン子も気をよくしたとみえ、塔吉が退院したあとも、そのまま店へ根を生やしてしまった。  若者のあいだでは、ジュン子のアイソもクソもない客あしらいが、ナウいのイマいのと評判をとっているそうで、ジュン子自身にいわせると、 「世の中|狂《くる》ってやがる」  のである。 「酒、つけてよ」 「一本か二本か」  わざわざたずねたのは、ここが軍太と志摩子のデートの待ち合せ場所になっているからだ。  一本のときは軍太ひとり、二本のときは五分と待たせず志摩子が顔を見せるしかけである。結婚《けつこん》はしたものの、バイトと勉強に忙《いそが》しいふたり、すれちがいが多くて、なかなか人並《ひとなみ》の時間に顔を合せられなかった。 「三本」 「なんだって」  ジュン子が、じろりと見た。 「そんな大酒飲める身分か」 「きみにおごる」 「私に?」  塔吉とジュン子は、顔を見合せた。 「傘《かさ》の用意しなけりゃな」 「心配するなよ。今日、脳外科の林谷先生が保証してくれたんだ……いつか頭をぶつけて、精密検査してもらったとき、正直のところちょっと不安があったのさ」 「いつ狂うのか、わからなかったのか……だからあんた、志摩子の幽霊《ゆうれい》が見えたんだぞ」 「うん、そうかもしれん。だが今日の診立《みた》てでは、ノイズゼロ、常人の脳波にもどっていたんだ。これというのも」  と、軍太はジュン子にむかって盃《さかずき》をあげてみせた。 「きみにアイアンでぶっ飛ばされたおかげらしい」 「狂いかけた頭が正気になったんだな。おめでとうよ」  ジュン子は手酌《てじやく》でちびちび飲みだした。  塔吉は、その様子を笑って眺《なが》めている。このところ、ずっと酒を断《た》っているのだ。 「熊さん、飲まないのか」 「おれか? そうだな……」  ちょっぴり気をひかれたようだったが、一方の壁《かべ》を見て、塔吉はてきめんにあわてた。 「わかったよ、飲まないよ」 「だれに話してるんだい」  ふしぎそうに軍太がたずねると、ジュン子は真顔で答えた。 「吉四六さ」 「吉……あの、死んだ犬か」 「かわいい奴《やつ》でね」  と、塔吉が照れくさそうに笑った。 「今でも幽霊になって、この店へちょいちょい遊びに来るんだ。おれがだらしなくすると、容赦《ようしや》なく吠《ほ》えつきやがる」 「なるほどなあ」  軍太は感心した。 「今度はあんたが頭をぶつけて、林谷先生とこへ通ってる……幽霊が見えるようになったってわけだ」 「ジュン子にアイアンでひっぱたいて貰《もら》や、治るかもしれねえが、それでは吉四六に会えなくなるんで、ま当分、このままでいさせてほしいよ」 「熊さんは、狂ってる方が、まともなんだから結構な話だ」  にやりとしたジュン子は、入口の開く気配に、珍《めずら》しく愛嬌《あいきよう》のある声で迎え入れた。 「いらっしゃい志摩子さん。旦那《だんな》さんがお待ちかねだぞ!」 角川文庫『私のハートに、あなたのメスを』昭和57年10月25日初版刊行